実は不要不急なものばかりだったPTA会長のルーティンワーク
そしてまたこの中学校運営委員会が、常に金曜日の早めの夕方に招集されるのだ。理由は、その中学校の副校長の手隙の時間をそこに充てがうからだ。そこ以外だと、中学の副校長の日常が回らない。
でも、どうして同じくフルタイム・ワーカーの僕が、自分の子供が通っていない隣の中学校の学校運営委員会に出席して、「今度の体育祭について」とか「健康診断の日程の変更について」なんていう話を聞いてメモを取らねばならないのか? その時間、こっちも仕事で授業中だよ。結局、隣接中学の学校運営委員会には3年間、ただの一度も出席しなかった。次期会長にも「仕事とかぶったら一切行かなくても何の問題もないよ」と引き継いだ。いや、引き継がなかった。
ここに書き切れないほどの「いったいこれまで何のためにあったのかもまったく検証されずに惰性でルーティーン化されていた会合」が、「ほとんど必要ないと言ってもいいぐらいのものだった」ことを教えてくれたのが、新型ウイルス感染症パンデミックだったのだ。
「何のためにこんなことやっているんですか?」と尋ねてもまったく埒が明かなかったいろいろなものが、「コロナですから」の七文字で、スーッと、全部、簡単に、あっけなく、「やらなくてもどうってことないのね」となった。拍子抜けとはこういうことを指すのだ。
任意団体であるPTAなんて止めてしまってもいいけれど……
日本中の街で、PTAは「うまくいかない」と嘆かれ、怨嗟の的となって、忌避されて、それでいて、今もなおものすごい数の人々の生活を巻き込んでいる。
これをどうしても何とかしたいと思うなら、単純だが、王道の解決法がある。それは、PTAなんて「止めてしまう」ことだ。嫌なら止めればいい。誰にも頼まれていないのだから。任意団体だからだ。でも、みんな止めない。いや、止めないのではない。「止められない」、もっと正確には「止めたいと言い出せない」のだ。
僕がPTA会長の3年間で、毎日友人たちを見ながら心に用意していた言葉はこのことだ。
「そんなに不幸な気持ちになるなら、やらなくていいんだよ」
そして、それは同時に「幸せな気持ちになるならやろうよ」という意味だった。自分の損得を超えて「やってあげたい」という気持ちは、思いがけずも多くの人たちが持っているものだからだ。
1962年東京都生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。専修大学法学部教授。民主主義の社会的諸条件に注目し、現代日本の言語・教育・スポーツ等をめぐる状況に関心を持つ。著書に『なぜリベラルは敗け続けるのか』(集英社インターナショナル)、『ええ、政治ですが、それが何か?』(明石書店)などがある。