読まれないものは「労力のムダっしょ」

だが、テレビがライバルと目すネットニュースに携わる優が、名誉にも「署名記事」として書き、ランキングトップ記事として世間から大いにページビューを稼いでいるのは「カッパ祭りレポート」なのだ。政治ものも書いてみたいですと申し出る優に、若くネット擦れした編集者は「あ、そういうの要りませんから、ウケないんで。記事の質だとかなんとか、読者が読まないもの提供したって労力のムダっしょ」と一蹴するのである。

ネットのように「周りに隠れて情報を閲覧できる」世界では、アクセス数やページビュー数は正直に「世間の皆さんの関心」を表している。ネットメディアの世界が長い人たちは、世間の読者が殺到するアクセス上位の常連ネタを長らく見てきているわけだが、確かにちょっとした人間不信になるというか、「人間ってのは品性下劣な生き物なんだな~」と思わされるというか、とりあえず性善説は取り下げて一度は人類に軽く絶望し、それを経験知として生きるものなのだ。

ネットに「絶対に」必要なもの

「ネットの出現で、マスコミの存在意義や価値とは何なのかが問われるようになった」と、先述した。誰もが発信できてひょんなことで注目を浴び、あっという間にヒーローやスターに祭り上げられるこの時代に、マスコミの存在意義や価値とはきっと「プロフェッショナルであること」だろう。文章や映像などの圧倒的に「高い伝達スキル」と、複数の人々の頭脳と経験をフィルターにした「企画編集力」だろう。

たとえば私は、文章も映像も発信内容もまともな「企画編集」を経ていないけれど面白がられて圧倒的なバズだけは生む「インフルエンサー」たちのSNSを見ていると、こんな稚拙な文章や映像を強い電気的刺激とともに直接脳に摂取して育つ子どもたちの未来を思って、暗澹たる気持ちになる。活版印刷にも漫画にも映像にも、そのカルチャーが熟すにしたがってきちんと作品クオリティ(もっと言うなら人類の知性や品性)を担保するために「企画編集」が生じたように、ネットにもそれが必要だ、絶対に。