すべてのメディアが痩せ細った

ならば広告モデルではなく有料(購読)モデルにすればいいのではないか、読者からの購読料に支えられることでクオリティも担保でき、メディアとしてのブランディングも確かになって一石二鳥じゃん、と有料モデルへのシフトも「正解」としてちょっとしたブームを起こしたが、それができるのはごく限られた、既に名のある大手媒体か、恒久的に投げ銭してくれるファンを育てることのできる(ファンクラブやオンラインサロンめいた)括弧つきの「メディア」だけである。

名のある大手媒体の中でも、特にトップクラスの新聞社やスクープに自信のある週刊誌は、どうにかデジタル会員を集めて有料モデルを維持している。だがその収益は、決して紙の売り上げ低下を補えるレベルではない。デジタル化は、自分を安くすることと同義。そもそもネットの情報の価値とは、「安い」、なんなら「無料」であることにあるからだ。経営難に陥る出版社のみならず、大手新聞社でも人員削減が行われたというニュースは、マスコミ業界に衝撃を与えた。

「このままでは、すべての報道が痩せ細る」

ネットの出現で、情報ってそもそも何だ、マスコミの存在意義や価値とは何なのかが問われるようになった。やがてネット自身を含むすべてのメディアが頭打ちで、自分で自分を食い続けるかのような成長しかしようがない状況と構造を見て、いまマスコミの人々はどこも「(俺が就職した頃は)こんなはずじゃなかった」「なぜ我々はこんな苦しい戦いを延々と続ける羽目になったのだろう」と頭を抱えているのが実情だ。

貧すれば鈍する

マスコミもまた、他業種と同じく売り上げがあってこそ回る産業。急激な少子高齢化とデジタル化に準備と適応が遅れ、「貧すれば鈍する」で痛々しい姿や見苦しい姿、魂を失った姿を晒してしまっているメディアがあるのは否めない。

勢いがありそうに見えるあのメディアもそのメディアも、舞台裏では日々刻々と出る数字とにらめっこ。ニュースも記事も、出した先からあっという間に古びて消えてなくなり、「次は何がウケる?」と、情報の異常な新陳代謝スピードに中毒を起こし、本人たちももはや良しあしの基準がわからなくなっている。

特にテレビ報道とネットニュースに顕著なその様子を、『和田家の男たち』は軽やかに指摘している。新聞人である寛が、ビールを缶から飲む秀平に対し「テレビは行儀が悪いな!」と嫌味を言い、報道姿勢に対しても貴重なご高説をたれるのだ。「テレビはこれだから。ニュースにしても、一報を報じたらそこまでだと思っているだろう。大切なのは、追い続けることだ」

テレビ報道マンの秀平も黙ってはいない。「新聞みたいなレガシーメディアにとやかく言われる筋合いはありません。テレビは最新のニュースを視聴者に届ける役割があるんです。ネットニュースに負けないスピードが大切なんです」