昨年放送された『和田家の男たち』は、新聞、テレビ、ネットニュースに関わるマスコミ3世代を主人公としたホームドラマだった。コラムニストの河崎環さんは、3媒体の栄枯盛衰と共闘を描いたこのドラマを見ながら、「どこもしんどい」という今のマスコミ苦境について考えたという――。
マイクと新聞
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もうあんな豪邸は建ちません

昨年12月10日に最終回を迎えた秋のドラマ『和田家の男たち』(テレビ朝日系列)を見て、かつて大手新聞社の社長まで務めたという設定のワダカン(和田寛)の鎌倉の邸宅に惚れ惚れとしながら、「もうこんな、昭和のレジェンドマスコミ人のおじいちゃんたちみたいな豪邸は建たないよなぁ~」と、現代の痩せ細るマスコミ業界の苦境に思いを馳せた。

ドラマの中のワダカンの豪邸は、インテリの薫りが焚きしめられたような住まい。重厚な造り、窓の意匠や梁に表れた昭和の和洋折衷テイスト、広いリビングダイニングの一角は紙と書籍が山積みとなった書斎、フランク・ロイド・ライトやエミール・ガレの美しい照明にワインセラー、光が溢れるアイランドのある大きなキッチン。特に、収納しきれず床の上であちこち雪崩を起こしている書籍には、活字マスコミ人の家の「あるある」な既視感があった。

かつて大手新聞社の政治部記者として夜討ち朝駆け、酒と取っ組み合いの議論、それなりに無頼で、頑固なくせにナイーブで、クセも文学への愛も強くて、ジャーナリストとしての誇り高かった自分の祖父を思い出した。誇りが高いあまり、政治の季節だった60年代末の労働争議で労働委員長として社史上初めて輪転機を止めてしまったとかで、ドラマで段田安則演じる「伝説の新聞人」ワダカンのように組織を上り詰めることはなく閑職に回り、退職前にはひっそりと囲碁将棋欄を書いていた、と聞いたけれど。

そんな、本当の新聞黄金時代の新聞人イメージを凝縮した(が、ドラマの都合上少々若い75歳設定の)男やもめ和田寛がひとりで住む豪邸へ、勤めていた会社がコロナ倒産してデリバリーサービスのアルバイトに身をやつす和田優(相葉雅紀)が、たまたまカツカレーを配達したことで『和田家の男たち』は始まる。

「中の人」たちが身につまされながら見た

熱中症で玄関先に倒れ込んだ寛を助けた優は、寛の息子で報道番組『フロンティアニュース』の総合プロデューサーであるテレビ局の報道マン・和田秀平(佐々木蔵之介)と鉢合わせ。実は秀平は、27年前に取材中の事故で他界した優の母・りえ(小池栄子)の再婚相手で、優は秀平の男手一つで育てられたものの、このところお互い仕事も忙しく父子は疎遠になっていた。

優は数年ぶりに義父・秀平と、そしておよそ20年ぶりに血の繋がらない祖父・寛との再会を果たしたわけだが、寛を1人にしてはおけないと判断した秀平のアイデアで3世代の男たちが同居する羽目に。やがて優はネットニュース記者としての就職先を見つけ、「マスコミ3世代一家」となった和田家の男たちによる令和の家族の姿が描かれていく。

脚本は大石静。さすがの巧みなプランで、筆者の周りの「マスコミ界女子」たちも毎週かじりついて見ては、業界構造や世代ギャップや社内政治や恋愛、いろいろ身につまされていたようだ。ネット側でもの書きを続け、紙や電波にもお邪魔することのある私は、和田家の3世代家族を見ながら、新聞・TV・ネットという3媒体の栄枯盛衰と共闘という的確な描かれ方に、感心しきりだった。

紙と電波のデジタルシフト

大手新聞社が大新聞と仰がれて「ペンは剣よりも強し」を体現していた時代や、雑誌の勢いと華やかさに憧れの視線が向けられた時代、テレビの派手さと圧倒的な強さに世間の関心が根こそぎさらわれた時代など、長らくマスコミは学生の憧れの業界ランキングでトップにあった。けれど今、マスコミ業界は広告減少と読者・視聴者離れでダウンスパイラル。

それは「より安く、よりパーソナルでより俗的な欲望に直接リーチできるネットの出現のせい」とされたけれど、ネットでデビューしてネットで20年書き続け「すっかり魂が汚れている」私すら、同感だ。

2000年前後からはまず「紙」、そして10年ほど遅れて「電波」の痩せ細り方が激しく、2010年代の彼らは勢いをつけたネットに「オールドメディア」と一蹴され、口の悪い層からは「マスゴミ」と罵倒された。新聞は発行部数が目に見えて落ち、雑誌は廃刊・休刊が相次いだ。テレビは明白に予算規模がシュリンクして、安く作れるけれど視聴率を稼げそうな番組を量産するスタイルへ。

新聞雑誌、テレビは広告出稿額が大きいため、経営苦境にあった企業はより小さなポーションでよりユーザーへダイレクトに訴求できるネット広告へシフトしていった。逃げた広告を追って、企業からの広告料で利益を出す広告モデルである紙も電波もデジタルシフトを図り、人材はネットに流れる。ところが、そもそも「安い広告料」をぶら下げて出稿してもらうネットメディアでは、低予算と少ない(かつ安い=若い=技術が低い)人材で規模の小さな報道や発信しかできず、広告モデルのネットメディアではコピペ記事やフェイクに近いニュースを量産して炎上を煽り、質の悪いページビューをひたすら稼ぐという、報道のクオリティ低下の問題が顕著になった。

人は本の中の行に指を向けます
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すべてのメディアが痩せ細った

ならば広告モデルではなく有料(購読)モデルにすればいいのではないか、読者からの購読料に支えられることでクオリティも担保でき、メディアとしてのブランディングも確かになって一石二鳥じゃん、と有料モデルへのシフトも「正解」としてちょっとしたブームを起こしたが、それができるのはごく限られた、既に名のある大手媒体か、恒久的に投げ銭してくれるファンを育てることのできる(ファンクラブやオンラインサロンめいた)括弧つきの「メディア」だけである。

名のある大手媒体の中でも、特にトップクラスの新聞社やスクープに自信のある週刊誌は、どうにかデジタル会員を集めて有料モデルを維持している。だがその収益は、決して紙の売り上げ低下を補えるレベルではない。デジタル化は、自分を安くすることと同義。そもそもネットの情報の価値とは、「安い」、なんなら「無料」であることにあるからだ。経営難に陥る出版社のみならず、大手新聞社でも人員削減が行われたというニュースは、マスコミ業界に衝撃を与えた。

「このままでは、すべての報道が痩せ細る」

ネットの出現で、情報ってそもそも何だ、マスコミの存在意義や価値とは何なのかが問われるようになった。やがてネット自身を含むすべてのメディアが頭打ちで、自分で自分を食い続けるかのような成長しかしようがない状況と構造を見て、いまマスコミの人々はどこも「(俺が就職した頃は)こんなはずじゃなかった」「なぜ我々はこんな苦しい戦いを延々と続ける羽目になったのだろう」と頭を抱えているのが実情だ。

貧すれば鈍する

マスコミもまた、他業種と同じく売り上げがあってこそ回る産業。急激な少子高齢化とデジタル化に準備と適応が遅れ、「貧すれば鈍する」で痛々しい姿や見苦しい姿、魂を失った姿を晒してしまっているメディアがあるのは否めない。

勢いがありそうに見えるあのメディアもそのメディアも、舞台裏では日々刻々と出る数字とにらめっこ。ニュースも記事も、出した先からあっという間に古びて消えてなくなり、「次は何がウケる?」と、情報の異常な新陳代謝スピードに中毒を起こし、本人たちももはや良しあしの基準がわからなくなっている。

特にテレビ報道とネットニュースに顕著なその様子を、『和田家の男たち』は軽やかに指摘している。新聞人である寛が、ビールを缶から飲む秀平に対し「テレビは行儀が悪いな!」と嫌味を言い、報道姿勢に対しても貴重なご高説をたれるのだ。「テレビはこれだから。ニュースにしても、一報を報じたらそこまでだと思っているだろう。大切なのは、追い続けることだ」

テレビ報道マンの秀平も黙ってはいない。「新聞みたいなレガシーメディアにとやかく言われる筋合いはありません。テレビは最新のニュースを視聴者に届ける役割があるんです。ネットニュースに負けないスピードが大切なんです」

読まれないものは「労力のムダっしょ」

だが、テレビがライバルと目すネットニュースに携わる優が、名誉にも「署名記事」として書き、ランキングトップ記事として世間から大いにページビューを稼いでいるのは「カッパ祭りレポート」なのだ。政治ものも書いてみたいですと申し出る優に、若くネット擦れした編集者は「あ、そういうの要りませんから、ウケないんで。記事の質だとかなんとか、読者が読まないもの提供したって労力のムダっしょ」と一蹴するのである。

ネットのように「周りに隠れて情報を閲覧できる」世界では、アクセス数やページビュー数は正直に「世間の皆さんの関心」を表している。ネットメディアの世界が長い人たちは、世間の読者が殺到するアクセス上位の常連ネタを長らく見てきているわけだが、確かにちょっとした人間不信になるというか、「人間ってのは品性下劣な生き物なんだな~」と思わされるというか、とりあえず性善説は取り下げて一度は人類に軽く絶望し、それを経験知として生きるものなのだ。

ネットに「絶対に」必要なもの

「ネットの出現で、マスコミの存在意義や価値とは何なのかが問われるようになった」と、先述した。誰もが発信できてひょんなことで注目を浴び、あっという間にヒーローやスターに祭り上げられるこの時代に、マスコミの存在意義や価値とはきっと「プロフェッショナルであること」だろう。文章や映像などの圧倒的に「高い伝達スキル」と、複数の人々の頭脳と経験をフィルターにした「企画編集力」だろう。

たとえば私は、文章も映像も発信内容もまともな「企画編集」を経ていないけれど面白がられて圧倒的なバズだけは生む「インフルエンサー」たちのSNSを見ていると、こんな稚拙な文章や映像を強い電気的刺激とともに直接脳に摂取して育つ子どもたちの未来を思って、暗澹たる気持ちになる。活版印刷にも漫画にも映像にも、そのカルチャーが熟すにしたがってきちんと作品クオリティ(もっと言うなら人類の知性や品性)を担保するために「企画編集」が生じたように、ネットにもそれが必要だ、絶対に。

「リテラシー」が必要なのは誰なのか

ノンフィクションライター石戸諭氏による新時代のメディア論『ニュースの未来』(光文社新書)の終章で、石戸氏は巷間に良識として流布する「一人ひとりが正しい知識を持って、メディアを批判的に読解するリテラシーが必要」との言説に、素晴らしい角度から異論を述べる。

佐藤(卓巳・京都大学教授、著書『流言のメディア史』)さんは、現代のメディアリテラシーの核心を「あいまい情報に耐える力である」と記しています。その通りだと思いますが、こうしたリテラシーは誰にとって必要なのかをもっと考える必要があります。「広く、あまねく、社会」にとって必要だと言えばその通りですが、それは長期的な目標になるでしょうし、若い世代から「教育」をすることによって今すぐにどうにかなるものとも思えません。どんな方法の教育が必要なのかもなかなかイメージしづらいものがあります。
そこで、こう問いを変えてみましょう。まずもって「あいまい情報に耐える力」が必要なのは、あるいは高める必要があるのは誰なのか。僕の考えはこうです。それは志すものも含めてライターや編集者、映像制作に関わっているニュースの発信者たちである。
(『ニュースの未来』pp.273-274)

次の世代に学習を押し付けている場合か

毎日のようにSNSで怒りを表明し、感情の連帯を強め、インフルエンサーになることも大切ですが、現場に足を運んだり、立場の異なる人間と対話をしたり、方法を考えることで研ぎ澄まされていく「複雑さ」への感覚はもっと大切です。いつだって急いでニュースを出すのではなく、一旦立ち止まって、考える時間を大切にするニュースを出す割合をちょっとずつ上げていくこと。速く伝えるニュースと、答えのない時間を耐えた後に出すニュースを使い分けること。そんな力を積み上げた先に、良いニュースへの道は切り開かれるのではないでしょうか。(同 p.275)

「フェイクニュースに騙されないように、メディアリテラシーを身につけましょう」なんて、次の世代に学習を押し付けている場合じゃない。まずはいまここにいる大人たちがリテラシーの核心たる「あいまい情報に耐える力」を持ち、数字に潰れず潰されず、良い報道をあきらめずに闘い続けることで、土壌が耕されて肥沃で豊かなカルチャーが生まれるのだろう。

だから、大人たちが自分は賢いつもりで下世話な情報に群がったり、SNSで他人や自分を貶めたり、不確実な情報に踊らされて我先に吹聴したりするのをまずやめて、ちゃんと賢い大人になることから「まともな未来」は始まる、ってことだ。