営業未経験で福井営業所長に抜擢

「父は『だから、亡くなった人の分もしっかり生きて働いて、社会に恩返ししなさい』と。本当にその通りだな、私はそうやって生きていかなければと思い、それが後の人生の大きな支えになりました。今の私があるのは、あのつらい経験があったからなんです」

その思いに支えられ、井村屋ではひたむきに仕事に取り組んだ。夜間の経理学校に通いながら働き、経理事務だけでなく顧客の要望をもとに改善案を出したり、得意先への配達を引き受けたりと幅広く活躍。

やがて、そうした姿勢が評価されて「正社員になってはどうか」と誘われる。「声が出るようになったら教員になりたい」という思いはあったものの、井村屋への愛着や姉の勧めもあって正社員登用試験を受けた。結果は合格。中島さんは正社員として新たなスタートを切ったのだった。

経理の仕事を続けるうち、営業所全体の売り上げや在庫の動きを把握できるようになり、地元の顧客ともつながりができた。もともと地元のニーズに詳しく、人と接するのも上手だった中島さん。そうした点が上司の目に頼もしく映ったのだろう。まもなく、営業未経験にもかかわらず、いきなり福井営業所長に抜擢される。

当時は、女性が働き続けることはもちろん、営業職に就くことも珍しかった時代。井村屋でも、全国に100人以上いる営業所員の中で女性は中島さんだけだった。しかも営業としての下積みを飛ばして営業所長に就いたのだから、当時としてはかなり異例のことだったに違いない。

「女性の営業をよこすなんて」

営業所の所員とは“地元の知り合い”同士だったため、摩擦はほとんどなかったそう。だが、不平等な扱いは受けた。外回りに不可欠な営業車を「女性はすぐ辞めるだろうから」とその時の上司に支給してもらえず、自分の車を使うように言われたのだ。それでも中島さんは腐ることなく仕事に取り組み、時には上手に人を頼った。

「4トントラックで配達に行くことも多かったんですが、私は駐車がうまくできなくて。バックの駐車ができなかったので、缶ジュースを買って『やってくれませんか?』と配達先の人に頼んだりしていました。『おもしろい女性がいるな』と、目立っていたかもしれません」

そう明るく振り返るが、実はつらく当たられて号泣したことも。営業所長として、大口の取引先に初めて挨拶に行ったときのこと。そこの社長が「うちは大事な顧客のはずなのに、女の営業をよこすなんて」と激怒したのだ。

当然、続く価格交渉の話も折り合わず、社長は「だから女の営業はダメなんだ」と言い捨てて奥の部屋に入ってしまった。どうしたらいいかわからずその場で数時間待ち続けたが、出てきてくれる気配はない。中島さんはがっくりしてその場を後にした。

帰り道、運転している最中に涙が止まらなくなり、サービスエリアに車を停めて泣きたいだけ泣いた。そしてトイレで顔を洗い、髪を整えてから家族が待つ自宅へ帰ったという。