中島伸子さんは、「あずきバー」「肉まん・あんまん」などのロングセラー商品で知られる井村屋グループ(津市)初の女性社長だ。福井営業所の経理事務アルバイトから営業所長、支店長、そして経営幹部へと着実にキャリアを築いてきた。「女性初」だらけの経歴の陰には、19歳のときに遭遇した壮絶な体験があった――。

結婚後、福井営業所で経理のアルバイトに

井村屋グループの中島伸子社長 写真=同社提供
井村屋グループの中島伸子社長(写真=同社提供)

中島伸子さんが井村屋製菓(現・井村屋グループ)で働き始めたのは23歳のとき。結婚を機に故郷の新潟から福井へと移り住み、近くで働ける場所を探して、同社の福井営業所に経理事務のアルバイトとして入った。

「最初はとにかく働きたかっただけだったんです。でも、そのうちに井村屋が大好きになっちゃって。私はただのアルバイトなのに、お客様の要望を改善案として提出したり、社の標語案に応募したりしたら採用されて、表彰までしてくれた。なんて誠実な会社なんだろうと思いましたね」

そう笑顔で話す中島さんだが、当時の「働きたい」という思いの裏には想像を絶する理由があった。もともとは教員志望。だが、19歳のとき大事故に遭って声が出なくなり、その夢は打ち砕かれた。

運命を変えたトンネル火災事故

1972年、福井県の北陸トンネルで列車火災事故が起き、700人以上もの死傷者が出た。中島さんはこの事故の生存者の一人だ。火災が発生したとき、3人の子を連れた母親から「この子だけでも逃して」と5歳の子を託され、その手を取って炎の中を懸命に逃げたという。

しかし、煙に巻かれて意識を失ってしまい、目覚めた避難先でその母子は4人とも亡くなったと聞かされた。自身も火事で熱気や煙を吸ったために喉を傷め、声がほとんど出ない状態に。声が出せないと教師として教壇に立つこともできない。託された子を救えなかったという罪悪感に、教員の道が絶たれた絶望感が重なり、苦しむ日々が続いた。

やがて、父親がくれた手紙をきっかけに、中島さんは徐々に前を向けるようになっていく。「『辛』という字に1本の線を足せば『幸』になる、必ずその1本を見つけて幸せになれるときがやってくる」──。手紙にはそう書かれていた。

営業未経験で福井営業所長に抜擢

「父は『だから、亡くなった人の分もしっかり生きて働いて、社会に恩返ししなさい』と。本当にその通りだな、私はそうやって生きていかなければと思い、それが後の人生の大きな支えになりました。今の私があるのは、あのつらい経験があったからなんです」

その思いに支えられ、井村屋ではひたむきに仕事に取り組んだ。夜間の経理学校に通いながら働き、経理事務だけでなく顧客の要望をもとに改善案を出したり、得意先への配達を引き受けたりと幅広く活躍。

やがて、そうした姿勢が評価されて「正社員になってはどうか」と誘われる。「声が出るようになったら教員になりたい」という思いはあったものの、井村屋への愛着や姉の勧めもあって正社員登用試験を受けた。結果は合格。中島さんは正社員として新たなスタートを切ったのだった。

経理の仕事を続けるうち、営業所全体の売り上げや在庫の動きを把握できるようになり、地元の顧客ともつながりができた。もともと地元のニーズに詳しく、人と接するのも上手だった中島さん。そうした点が上司の目に頼もしく映ったのだろう。まもなく、営業未経験にもかかわらず、いきなり福井営業所長に抜擢される。

当時は、女性が働き続けることはもちろん、営業職に就くことも珍しかった時代。井村屋でも、全国に100人以上いる営業所員の中で女性は中島さんだけだった。しかも営業としての下積みを飛ばして営業所長に就いたのだから、当時としてはかなり異例のことだったに違いない。

「女性の営業をよこすなんて」

営業所の所員とは“地元の知り合い”同士だったため、摩擦はほとんどなかったそう。だが、不平等な扱いは受けた。外回りに不可欠な営業車を「女性はすぐ辞めるだろうから」とその時の上司に支給してもらえず、自分の車を使うように言われたのだ。それでも中島さんは腐ることなく仕事に取り組み、時には上手に人を頼った。

「4トントラックで配達に行くことも多かったんですが、私は駐車がうまくできなくて。バックの駐車ができなかったので、缶ジュースを買って『やってくれませんか?』と配達先の人に頼んだりしていました。『おもしろい女性がいるな』と、目立っていたかもしれません」

そう明るく振り返るが、実はつらく当たられて号泣したことも。営業所長として、大口の取引先に初めて挨拶に行ったときのこと。そこの社長が「うちは大事な顧客のはずなのに、女の営業をよこすなんて」と激怒したのだ。

当然、続く価格交渉の話も折り合わず、社長は「だから女の営業はダメなんだ」と言い捨てて奥の部屋に入ってしまった。どうしたらいいかわからずその場で数時間待ち続けたが、出てきてくれる気配はない。中島さんはがっくりしてその場を後にした。

帰り道、運転している最中に涙が止まらなくなり、サービスエリアに車を停めて泣きたいだけ泣いた。そしてトイレで顔を洗い、髪を整えてから家族が待つ自宅へ帰ったという。

3時間のお説教にも「感謝」

「その晩は、私は何も悪いことしていないのに、一体どうすればいいんだろうと悩み抜きましたよ。でも、あの列車事故で亡くなった方々を思うと、生き残った私がこんなことでくじけていては申し訳ないと思い直したんです」

意を決した中島さんは、翌朝まだ暗いうちに家を出て再び同じ取引先へ。会社の前で2時間ほど待ち、出勤してきた社長に声をかけた。「当社に悪い点があるのなら直します。でも私が女性だからというだけでお叱りになるのは勘弁してほしい」と。

そこから、約3時間ものお説教が始まった。顧客に対する話し方から相手を見るときの目線まで、営業としてのあるべき姿を延々と指導されたのだ。心が折れてもおかしくない出来事だが、中島さんはこれを「いろいろと教えていただけて勉強になった」と前向きにとらえた。

社長とはこの事件をきっかけに会話が増え、最終的には何かあればすぐに声をかけてもらえる関係性ができた。多くのことを教わり、社長が故人となった今も、思い出し感謝しているという。

家族と離れ、東京へ単身赴任

その後、北陸支店長になった中島さんは、次のキャリアとして関東副支店長のポジションを打診される。このときは3人の子どものうち末っ子が大学受験を控えていることを理由に来年ならと伝えて断ったが、翌年に再び打診が。今度はノーとは言えなかった。

家族とは、以前から転勤の可能性についてよく話していたそう。夫は地元で会社を営んでいたため、転勤となれば中島さんが単身赴任するしかない。それでも夫は「もしそういう話があったら遠慮せず相談してくれ」と、常日頃から応援してくれていた。中島さん自身の中にも、東京へ行ってみたい、もっと広い市場を相手にしてみたいという思いがあった。

「北陸支店は、小さな支店でしたけど営業成績は良くて、人口1人あたり500円くらい売っていたんです。関東の市場はざっと3000万人ですから、『3000万人かける500円だと150億円だなあ』なんて考えて。単純な空想をしてしまったんですよね。チャレンジしてみたくなったんです」

2001年、中島さんは家族の後押しを得て東京へ単身赴任。新しい環境で新しい挑戦をと意気込んでいたが、それまでいた地方の支店とは勝手が違い、苦労も多かった。2003年には副支店長から支店長に昇進したが、やがて北陸支店との違いを痛烈に思い知らされる出来事が起きる。

上野動物園のパンダ人気に目をつけた中島さん、上野公園で自社の「パンダまん」を売ろうと提案した。営業担当者は「いいですね」と言ったものの、待てど暮らせど売り込みに行く気配がない。そこで若手社員に「商談に行ってほしい」と頼んだところ、予想もしない答えが返ってきた。

「女性の支店長はいらない」にショックを受け辞表

「だから田舎の支店長は嫌なんですよね。田舎と違って、僕たちには商品を1件1件売り歩いている時間なんてないんですよ」

首都圏は市場規模が大きく、チェーン化している。顧客1件あたりの売り上げは、北陸とは比較にならないほど大きい。営業担当者も、大口の顧客を重点的に回ることが多かった。ほかの担当者は、面と向かってそれを中島さんに言わなかったが、この若手社員は正直に本音を吐露したのだった。

ショックだったが、ここでくじけていては前に進めない。中島さんは「自分が女性だから話を聞いてもらえないのかもしれない」と考え、社員の意識を知ろうと、「女性の支店長をどう思うか」というアンケートを実施した。

結果は散々だった。「女性の支店長はいらない」「どちらかと言うといらない」が約8割。無記名なのにわざわざ自分の氏名を書いて提出してきた人もいた。地方の女性所長がいきなり関東支店長になったということで多少の反発は覚悟していたが、これほどとは思っていなかった。

目を覚ましてくれた上司の言葉

「悲しくて、何のために一人でこっちへ来たんだろう、『東京へ行って売り上げを伸ばすぞ』なんて夢見ていた自分が甘かったなと。それで悩んで悩んで、とうとう辞表を書いたんです」

当時の上司は現会長の浅田剛夫氏。経緯を説明して辞表を渡したところ、中も見てもらえずピシャリと叱られた。「女性支店長をどう思うかなんて、お客様が言うことであって、社員の意見を気にする必要はない。そんなアンケートを取る暇があったら営業してこい」──。

心の奥で、「引き止めてくれるのでは、励ましてくれるのでは」と期待していことに気付いた中島さん。「私のそんな甘さを見抜いたからこそ叱ってくれたのだ」と感じ、帰宅後には恥ずかしさのあまり一人涙したという。

着実にステップアップ、東京から三重県へ

尊敬する上司の言葉で初心を取り戻し、以降は営業部門のトップとして手腕を発揮。執行役員、取締役と着実にステップアップしていく。またこの間には、関東支店から三重県の本社へ、営業現場の意見や顧客から吸い上げた要望を届け続けた。

2012年、取締役マーケティング本部長の時の中島さん
2012年、取締役マーケティング本部長の時の中島さん(写真=本人提供)

そうした姿勢と実績が評価され、2011年、中島さんは本社に呼び寄せられる。福井から単身赴任で東京に来て10年。2度目の転勤で単身赴任期間はさらに延びることになったが、井村屋グループの常務取締役および総務・人事グループ長という役割に、「現場の意見を経営に反映できる」と身が引き締まった。

社長に指名されたのはその8年後。予想外の指名に驚き数日間悩んだが、尊敬する浅田会長からの指名だったこともあり、「井村屋が好きだしご恩返しするべき」と覚悟を決めた。

起こったことは前向きに捉えるしかない

就任時、会長からは「女性活躍推進のために社長にするのではない」と言われたという。さらに、「今後は経営が厳しくなることもあるだろうが、社員を大切に全力で経営に打ち込んでほしい」「社長に一番大事なのは勉強を怠らないことだ」とも。それができる人間だと見込まれたということだろう。

まだ働く女性が少なかった時代から営業職や単身赴任に挑み、現在のキャリアを築いた中島さん。今の時代では考えられない、女性だからこその困難も多々あったが、列車事故で亡くなった人たちに思いを馳せて乗り越えてきた。

加えて、もともと人が好きなことから、新たな環境で出会う人々も仕事の原動力に。時に嫌味を言う人がいても、働く中で培った「開き直り精神」で対応し、くよくよした気持ちを引きずらないように心がけてきた。

「起こってしまったことは前向きに捉えるしかないですよね。自分の人生のハンドルを握れるのは自分だけ。だから、壁にぶつかったら引き返すのではなく『どうしたら切り開いていけるか』を考えるようにしています。これからも、そうしたプラス思考を大事にしていきたいですね」

2021年4月の入社式で。前列左から4人目が中島さん。右隣が浅田剛夫会長
写真=同社提供
2021年4月の入社式で。前列左から4人目が中島さん。右隣が浅田剛夫会長