「コスパの高い」自爆テロは貧者が出せる最後の呪文

きっと、数々の事件も、本質はずっと一緒なのだ。「資源や関係性の貧困」「自暴自棄(ヤケ)」かつ「そんな俺を見て」。その瞬間に輝く自分の姿を夢見てせっせと準備をする、気の毒なナルシストの自傷行為である。

孤独である、でも愛されたい、人々に注目されたい、でも自分にそんな才能はない、いや本当はあるんだよ多分、だけど環境が、社会が、特定の「あいつら」が俺をばかにし続けたから、俺は弱者に「なった」んじゃない、「された」んだ。

映画『ジョーカー』を見て本当に感じるべきは、まさにこの打ちのめされた被害者意識が主人公のロジックであり、自分自身を正しく相対化できず妄想にのめり込んでいった理由であったという、制作者のメッセージである。

ジョーカーの弱々しく無様なダンスや、他者の感情をうかがうようにして向ける哀しい泣き笑いや、誰の耳にも届かない獣のような咆哮や、ラストで暴徒と化した群衆に祭り上げられて戸惑いながらほころぶ表情や、暴徒たちのジョーカーに対する安易な英雄視すら、全ては「どうしようもなく惨めである」との視点をブラさず描いているのだ。社会的弱者の絶望をこんなに冷静な視線で丁寧に描いた映画で、ジョーカーに憧れてしまっては、この映画のメッセージをきちんと受け取れていないと言うしかない(が、今さらそんなことを言ったところで何の意味もないのだろう)。

「暴動」も「無差別殺傷」も、要は関わりのない人を巻き込む犯罪、テロだ。かつて追い詰められた無策な日本軍が自棄になり、特攻という自爆テロ作戦を選んで数々の兵士の自己犠牲を招いたのと同様、自己犠牲テロは「追い詰められた貧者」が、尽きた選択肢の中で最後に選ぶ、非常に皮肉な意味で「コスパの高い」最後の呪文なのである。

「人を殺せば、死刑になると思った」。どこかで何度も聞いたことのある、安い言葉。彼の渾身こんしんのドラマすら、安くお手軽なYouTube規模で嘲笑され、無料のSNSで無責任に拡散される。そんなものに他人や自分の命を懸けるほどの価値が、どこにあるというのだろう。

河崎 環(かわさき・たまき)
コラムニスト

1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。