10月31日のハロウィーンの夜、東京都調布市内を走行していた京王線の特急電車の中で、乗客17人が男に切りつけられるなどして重軽傷を負った。毎日新聞などによると、男は映画の「バットマン」シリーズに登場する悪役「ジョーカー」の仮装をしていたという。コラムニストの河崎環さんは、この事件の犯人も「迷惑系ユーチューバー」も本質は同じで「気の毒なナルシストの自傷行為だ」という――。
電車内で乗客が刺されるなどした事件で、騒然とする京王線国領駅周辺=10月31日夜、東京都調布市
写真=時事通信フォト
電車内で乗客が刺されるなどした事件で、騒然とする京王線国領駅周辺=10月31日夜、東京都調布市

速報性が高く、遠慮も容赦もないSNS

「君たちは人殺しの顔が見たくないか?」

新潮社の天皇と呼ばれた天才編集者・斎藤十一が写真週刊誌『FOCUS』創刊の際、なぜそんな雑誌を作るのかと問われて答えたと伝えられている、あまりにも有名な一言だ。高度な教養人でありながら、人間の本質的な卑俗を知っていた斎藤十一。彼の指摘通り、どんなに上品を気取ろうが善人のふりをしようが、私たちは人殺しの顔、犯罪者の顔が見てみたかったのだ。

1981年に創刊された『FOCUS』は売れに売れ、“二匹目のドジョウ”を狙う競合誌が次々創刊し、犯罪者の顔や有名人の不倫現場やヌード写真や、「いけない写真」を載せた写真週刊誌は大ブームを起こした。

いま、写真週刊誌よりもはるかに速報性が高く、遠慮も容赦もないのはSNSである。案の定、あの衆院選開票の夜、京王線に現れた自称「ジョーカー」が起こした車両内火災と逃げ惑う人々の様子は、1時間ほどでニュース番組で報じられ、派手で不似合いなスーツ姿の犯人が70代男性を刺し車内に放火した後に、足を組んで座席に腰掛け、ぶるぶると手を震わせながら懸命にタバコを吸う振りをしてみせる姿も、SNSに上がったところをすぐ大手メディアが拾いあげた。

「誰がこんなひどいことを」と憤ったのち、犯人の顔を見て「こんな奴が」とあざけり笑うまでが、この事件のセットだった。

服部恭太容疑者(24)本人が、映画『ジョーカー』にインスパイアされたとどれだけ主張しようとも、世間はそれには懐疑的だ。

「あの映画の意味わかって言ってんのかよ」
「漫画とかアニメとか映画に影響されたとか、最近、そんな事件ばっかりだな」
「ちゃんと作品を理解できない奴はこれだから」
「マジ迷惑」

「迷惑系ユーチューバー」とどこが違うのか

匿名掲示板「2ちゃんねる」創設者のひろゆき氏が、自身のYouTubeチャンネルで、京王線のジョーカーを以前からの持論に沿って「何も失うモノのない“無敵の人”」であると指摘している。近年では京王線ジョーカーが着想を得たと言われる小田急線刺傷事件の他に、凄惨な火災と多数の死者を出した京アニ事件、川崎市登戸通り魔事件、秋葉原無差別殺傷事件、附属池田小事件、海外でも周囲を巻き込んだ末に犯人が自らを撃って自殺する数々の銃乱射事件など、窮乏や孤独とナルシシズムを動機とする「自爆系テロ」は枚挙にいとまがない。

「ヤバい」の意味が「最高」と「危険」の両極端に振れることに違和感を持たない時代には、「いけない」という概念は薄い。危険な(ヤバい)ものほど最高(ヤバい)。見せたいから見せる。見たいから見る。その感覚の延長で、動画投稿サイトは時々炎上というお灸を据えられながらも括弧付きの「言論の自由」を謳歌し、洗練や鍛錬やプロフェッショナリズムとは正反対の発想で一獲千金を夢見る素人たちの雑多な作品が量産される。「見る人さえ多ければ儲かるんだから正義ですよね、何か?」の時代に、倫理道徳や人生哲学なんて口にするだけむなしい。

そう考えてみれば、この京王線ジョーカーと「ヤバいことやってみたら、もしかして(数字が)ハネるかも」とワンチャンに賭ける迷惑系ユーチューバーとの間に、どれほど大きな違いがあったというのだろう。あるいは、これまでのどの時代にもどの社会にも一定数いた自意識過剰な劇場型犯罪者や自爆テロリストや通り魔たちに比べて、何が新しいというのだろう。

スマートフォンの画面に各SNSのアイコンが表示されている
写真=iStock.com/stnazkul
※写真はイメージです

「コスパの高い」自爆テロは貧者が出せる最後の呪文

きっと、数々の事件も、本質はずっと一緒なのだ。「資源や関係性の貧困」「自暴自棄(ヤケ)」かつ「そんな俺を見て」。その瞬間に輝く自分の姿を夢見てせっせと準備をする、気の毒なナルシストの自傷行為である。

孤独である、でも愛されたい、人々に注目されたい、でも自分にそんな才能はない、いや本当はあるんだよ多分、だけど環境が、社会が、特定の「あいつら」が俺をばかにし続けたから、俺は弱者に「なった」んじゃない、「された」んだ。

映画『ジョーカー』を見て本当に感じるべきは、まさにこの打ちのめされた被害者意識が主人公のロジックであり、自分自身を正しく相対化できず妄想にのめり込んでいった理由であったという、制作者のメッセージである。

ジョーカーの弱々しく無様なダンスや、他者の感情をうかがうようにして向ける哀しい泣き笑いや、誰の耳にも届かない獣のような咆哮や、ラストで暴徒と化した群衆に祭り上げられて戸惑いながらほころぶ表情や、暴徒たちのジョーカーに対する安易な英雄視すら、全ては「どうしようもなく惨めである」との視点をブラさず描いているのだ。社会的弱者の絶望をこんなに冷静な視線で丁寧に描いた映画で、ジョーカーに憧れてしまっては、この映画のメッセージをきちんと受け取れていないと言うしかない(が、今さらそんなことを言ったところで何の意味もないのだろう)。

「暴動」も「無差別殺傷」も、要は関わりのない人を巻き込む犯罪、テロだ。かつて追い詰められた無策な日本軍が自棄になり、特攻という自爆テロ作戦を選んで数々の兵士の自己犠牲を招いたのと同様、自己犠牲テロは「追い詰められた貧者」が、尽きた選択肢の中で最後に選ぶ、非常に皮肉な意味で「コスパの高い」最後の呪文なのである。

「人を殺せば、死刑になると思った」。どこかで何度も聞いたことのある、安い言葉。彼の渾身こんしんのドラマすら、安くお手軽なYouTube規模で嘲笑され、無料のSNSで無責任に拡散される。そんなものに他人や自分の命を懸けるほどの価値が、どこにあるというのだろう。