「世の中の最前線を見たい」と日本テレビ記者に
森澤さんは1978年に、神奈川県茅ケ崎市でサラリーマン家庭の長女として生まれた。遠い親戚に国会議員がいたことを除けば、政治の世界とは縁がない家庭環境だった。
高校2年のとき、アメリカのミシガン州に留学した。ホームステイ先は、看護師として働きながら自分と同い年の娘を育てるシングルマザーの家庭。留学で、前向きな性格が培われたという。
慶應義塾大学法学部政治学科に入ると、女性が結婚・出産を経て働きつづけることへの問題意識が醸成されていった。
「2000年に太田房江さんが大阪府知事になって、日本初の女性知事が誕生したと話題になりました。えっ、女性の知事っていなかったんだ! と逆にびっくりしました。いまでも女性の知事は少ないですけど、当時はかなりの衝撃でした」
本格的にジェンダーギャップを意識するようになり、卒業論文は「少子化を通して考えるこれからの日本のあり方」をテーマとした。
2002年、「世の中の最前線を見たい」という思いから、日本テレビに入社して報道局記者となった。外報部に配属され、04年にはスマトラ島沖地震で大津波が襲ったタイの被害状況や、ジョージ・W・ブッシュが再選を果たすアメリカ大統領選の共和党大会などを取材した。当初の希望だった政治部に移ると、小泉純一郎内閣の総理番となり、05年の郵政選挙を取材した。まさに世の中の最前線を目の当たりにできる立場だった。
政治部記者からベンチャーへ
ところが、森澤さんは06年に日本テレビを辞めてしまう。
「記者の仕事はおもしろくてやり甲斐もありましたけど、取材する側より、世の中に新たな価値を生み出す側になりたい、事業に携わりたいと思うようになったんですね。辞めるときは、いろんな方から『もったいない』と言われました」
テレビ局の記者といえば、花形職業であり、給料も高い。「もったいない」と言われて当然だろう。
転職先には、当時注目を集めていた女性社長が経営するベンチャーを選んだ。
「(その女性社長の)本を読んで、生き方や考え方に憧れましたね。起業家はパワフルなだけじゃなく、事業を通して社会をよくしていくんだというピュアな部分があると思います。これは政治家にも必要なことですね。当時はちょうど女性起業家が注目されていた時期で、こういう会社で働いたらおもしろそうだなと。基本、私は好奇心で動いているんで(笑)」
その会社のホームページを見ると、キャリア採用の求人欄があった。そこで申し込むと「テレビの記者が応募してきた」と驚かれた。
入社後に担当したのは、中小企業のPR活動をサポートするコンサルティング業務。顧客開拓から契約や納品、代金回収までビジネスの流れを一通り経験した。
「ベンチャー企業ですから、自分で何でもできなければいけない。大変でしたけど、ここでビジネスの基本スキルを学べたのはよかったと思います」