上司から声をかけられ、法人営業をすることになったが、男性と共に企業を訪問すると、取引先には「事務員を連れてきたとしか思ってもらえない(笑)」。そこで男性と肩を並べて働く難しさを感じた。なんとか一戸建ての契約を取るため、「奥さまとなら話ができる」と考えて企業の社宅を回り、各家庭の事情を聞きながら、成約につなげていった。
最初の試練は、自身にとって2棟目の契約となった住宅の建設中に起こった。業者との行き違いで照明器具が約束した日に取り付けられず、顧客に電話で怒鳴られてしまった。
「私はちゃんと取り付け可能日を確認していたんです。だから一瞬、自分は悪くない、と思ってしまった」
しかし、ちょっとした行き違いが積み上がって起きてしまったことを、誰かのせいにすること自体がおかしいと考え、引っ越し当日に土下座するくらいの勢いで謝罪に行った。そのかいあって、いまもこの顧客との関係は続いているという。
「怒られるのにはそれなりの理由があるし、誠実に向き合うことについて洗礼を受けた出来事でした」
その後、神戸・山の街展示場の店長に就任。営業職の女性たちと奮闘していた1995年に最大の危機に見舞われた。後輩女性の家に泊まり込んで仕事をしていた日、阪神・淡路大震災に遭ったのだ。家具が倒れ、2人で命からがら外に避難したが、いったん落ち着くと「お客さんの安否確認を!」と奔走した。その後しばらくは食事や睡眠の時間を削って被害確認に回った。
「ひとまず落ち着くまでに約1年かかりました」
積水ハウスの家は地震による全壊・半壊がゼロ。「住む家で人生が変わる」と、家づくりを仕事にしている重責をあらためて感じた。そして、10年後には営業成績300棟を達成。しかし、そこで営業を離れ、人事部へ異動して新しい仕事に取り組む。
いったん制度を作れば現場の空気は変わる
「当時、女性営業職は少しずつ増えていましたけれど、全国に配属されると、各地にポツポツいるという感じになってしまう。その状況をなんとかしたいと思い、女性活躍推進グループのリーダーの公募に手を挙げました」
それまで男性社会だっただけに、支部長クラスから「若い女性たちに営業がやれるのか」という反発も受けたという。「覚悟なんて最初にすることじゃなくて、実際に仕事をしていく中でできてくるもの」「営業としてきちんと育てれば、女性も男性と同じ」という認識を持ってもらうために、膝を突き合わせて話すこともあった。しかし、5年もすると、営業成績の秀でた女性も出てきて、社内の空気が変わった。
「ありがたかったのは、現在の経営陣が女性を活用することは会社の将来のための経営戦略と考え、その方針がぶれなかった点ですね。だから、安心していろんな手が打てました」