なぜ先進的な企業が生まれなくなったのか
「何のために学ぶのか」が見えないまま、立身出世するために受験をする構造は、このように明治のはじめからできあがりました。江戸時代から続く朱子学の考え方を武士だけでなく庶民にまで広げたのが明治政府でした。
しかし、戦後しばらくは、職人文化も豊かにありました。たとえば、本田技研工業(ホンダ)の創業者、本田宗一郎(1906-1991)は学校教育に依存していません。高等小学校を卒業後、自動車修理工場で働き始め、職人として腕を磨きながら会社を立ち上げて大きくしていきました。パナソニックの創業者、松下幸之助(1894-1989)も学歴は小学校中退です。このような叩き上げの人たちも、戦後の日本の産業をつくり上げてきたのです。
日本では、この時代にできた企業がその後もずっと最先端を走り続けてきました。そしていま、日本はどうなったでしょうか。アメリカのようにGAFAを生み出すことも、韓国のサムスンや中国のファーウェイ、アリババなどのような企業をつくることもできませんでした。それはなぜか、私たちは考えなくてはなりません。
教育は、大きな産業をつくるためだけのものではありませんが、若者が時代の流れを読み、夢を見つけ、そして実際に新しい仕事、新たな産業をつくり出す能力をもった人を育てられているかもその成否をはかる一つのバロメーターになるでしょう。その点では現在の教育は失敗していると言えそうです。
人はなぜ学ぶのか
学び論が深まらず、教育は受験という決まったゴールを目的としてきた結果、日本では、上手に点をとる手段を細分化することはずいぶんと進みました。そのような状況の中では、効率よく上手に点をとるためのスキルを教える「教え方」が大事になります。そしてそれは、いまや学校よりも予備校のほうが長けていると言えますが、考えてみればおかしな話です。
「人はなぜ学ぶのか」
そもそも人は、自分の意思で生まれてきたわけではありません。私たちの命は、冷静に客観的に見れば途方もなく長い時間の流れの中でほんのいっとき、前の世代から受け継いだ命を次の世代へとつないでいるだけです。動物も植物も、命あるものは全て同じです。
人間は、世界に追いつくためでも、工場で効率よく働くためでも、国家のためでも、立身出世するために生まれてきたわけでも、ありません。与えられた条件のなかで必死になって生き、死ぬときに生きていてよかったと思えるように生きる、それだけです。
それを前提に、自分にとって本当に大事なことは何か。どの時代の人間も、このこと、いわばもっとも人間学的=哲学的な問いを追いかけることが生きる目標でした。人はだから、学ぶのです。
しかし、近代の日本では、そのようなことを考える必要はありませんでした。学ぶ目的ははっきりしていました。先に答えが定められていたために、学び論は十分に深まらなかったのです。
深いところで「よく生きるとは何か」「本当の意味の幸せは何か」について考えようということもなく、ただ点数を追いかけました。原点に戻って「何のために学ぶのか」を考えようと呼びかけてくれる先生もほとんどいませんでした。
この大きな流れは、最近まで基本的に変わらなかったのです。
1947年、大阪府生まれ。東京大学教育学部卒、同大学院博士課程修了。専門は教育学、教育人間学、育児学。育児や保育を総合的な人間学と位置づけ、その総合化=学問化を自らの使命と考えている。主な著書に『小学生 学力を伸ばす 生きる力を育てる』『本当は怖い小学一年生』など多数。近著に『「天才」は学校で育たない』(ポプラ新書)、『教えから学びへ 教育にとって一番大切なこと』(河出新書)がある。