そして最後に、人の話を遮るクセが出ないように、意識して人の話を最後まで聞き、あえてゆっくり話すようにしました。

つまり、自分の感情の揺らぎをいったん認めたうえで、それを自分の態度で打ち消したわけです。

感情だから仕方ないと思うのではなく、感情が生まれる原因や状態まで掘り起こしていく。この習慣をふだんから身につけていくと、自分を客観視する思考が育まれていきます。

「論破」は賢明な手法ではないワケ

さて、自分が信じること、あるいは単純に意見を表明するとき、「自分の主張を通そう」とする人はたくさんいます。最近では、それが「論破」などと持ち上げられることもありますが、さほど賢明なやり方とはいえません。

「自分の主張を通す」ことの裏には、「相手の主張を退ける」意図があります。勝つか負けるか。正義か悪か。そんな二項対立から、建設的な解決はほとんど生み出せません。

従業員の仕事に不満を持つエグゼクティブマネジャー
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「まちがっていることは、まちがっている」

そう語る人は、自分こそがまちがっている可能性に気づけないという、致命的な陥穽かんせいに陥っています。

そもそも、人間や組織同士の関係はもっと複雑なもの。あたりまえですが、関係者すべてをふたつの陣営にわけられるはずもなく、そこには対立のかげで苦しむ人がいたり、全員を出し抜こうとしている人がいたり、もっと別の動機を持つ人もいたりします。

要するに、「自分の主張を通そう」としても対立があおられるだけで、ものごと全体をさらに混乱させるだけなのです。

では、どうすればいいのか?

わたしの答えは、「全体がより良い結果を得る」ことを目指すこと。これは、妥協ではありません。そうではなく、相手の立場を理解し、互いの主張を少しずつ取り入れながらも、まったく新しい第三の道を探っていくということです。

このような視点を持つと、次元の高い解決策を生み出すことができ、個人でも組織でも、より向上することができるでしょう。

不可欠なマイノリティの視点

相手の立場を理解するために、覚えておきたいポイントが、相手が「マジョリティ」なのか「マイノリティ」なのかという点です。

たとえば、日本人は、国内にいると自分が日本人であることを意識することはほとんどありません。でも、いったん海外へ行くといきなりマイノリティとなり、感受性が鋭敏になることで、他者の悪意がない言動にも傷ついてしまうこともあります。

このように、誰にでもマイノリティの部分があります。また環境や条件によって、自分のなかにマイノリティの部分が生じることもあるわけです。