私なんて何度ダメだと言われたか
あれから20年、いまだに神戸工場の立ち上げメンバーと会うと『あの時はこうだった』という苦労話になります。たぶんそれは一生やり続ける(笑)。しかも工場長が天才肌で、とても研究熱心な人でした。私たち現場の人間にも直接、知識を問い、知らないとダメ出しされる。私なんて何度ダメだと言われたか数え切れないぐらいでした」
神崎さんが「思いついたことをすぐやってしまうタイプ」だったこともあり、頭ごなしに怒られることもあったが「当時はそんなことものともしなかった」という。もの作りの最前線で働くのは、それほど楽しかった。だが、同時に壁も感じ始める。
「工場ではチームで仕事をしているので、そのチームで出した成果をきちんと形にしていきたいと思ったんです。例えば生産性を上げるための提案をしても、なかなかすんなりとは通らない。むしろ通るほうが珍しいぐらい(笑)。だから自分のポジションを決定権があるところに上げないと次につながらないと思いました。気持ちとしてはけっこう切実でしたね。仕事していて楽しいだけではダメだと気づいた時期でした」
その思いから経営職に合格したのは42歳のとき。女性で管理職になる人はまれだった。さらに上を目指し、栃木工場で花形といわれる醸造担当部長になった後、工場閉鎖を経験したのが最大の試練だったという。
「当時は部下が50人ぐらいいました。一人一人と面談し、期間雇用の人には辞めていただき、正職員には他のエリアに異動してもらう。みんな栃木で働けると思って入ってきたわけですし、住宅を買っている人もいる。当然、不満は出てきます」
閉鎖は半年後で時間はあったが、メンタル的に厳しい半年間だった。
「一貫して『ここで後ろ向きになって、腐ってもいいことはない。閉鎖までの間にどう成長するかを考え、新しいところに行ってスタートダッシュしたほうがいい』と部下を説得し続けました。そして、工場が閉まった日はみんな大泣きでしたね」
管理職の辛い役割を全うし、「2度としてはならない」と心に刻んだ。自身も本社に異動になり、さらに研究所を経て、女性初の工場長に。
「そのときは内線電話で内示を受けて、『神戸工場だ』と言われ、まさか工場長とは思わず『神戸工場のなんですか?』と聞き返しました(笑)。でも、立ち上げの思い出がある神戸でうれしかったですね」
2017年には現職の横浜工場長となり、同時にキリンビール執行役員に。役員になる際の面接では失敗したと思っていただけに、昇格には驚いたとか。