時空を超えた壮大な聖域に、時の権力者・藤原道長も参詣に訪れました。それをきっかけに、高野山は天下の霊場として名を馳せます。また、道長の娘の彰子(上東門院)が出家のために剃髪し、奥之院に髪を納めたことで、貴族や大名を中心に、納骨や建碑の風習が広まりました。

戦国時代になると、常に死と隣り合わせだった武将たちは、心のよりどころとして高野山に深い関心を寄せました。奥之院に石塔を建て、死後の安らぎを願ったのです。

奥之院に眠る戦国武将たち

戦国期〜江戸期にわたり、約200もの大名家が墓所を建立しているという奥之院(高野山教育委員会調べ)。かつて敵味方に分かれて戦った武将たちも、同じ地に眠っています。名だたる戦国武将の供養塔の一部をご紹介しましょう。

武田信玄・勝頼、上杉謙信・景勝の墓所
(左)武田信玄・勝頼の供養塔/(右)上杉謙信・景勝の墓所。木造建築の霊屋となっている。
石田三成の五輪塔は、生前に自身で建立
石田三成の五輪塔は、生前に自身で建立。
織田信長の供養塔
織田信長の供養塔。比叡山延暦寺を焼き討ちにした信長は高野山も攻撃したが、「本能寺の変」が勃発し、織田軍は撤退。高野山は難を逃れた。
信長の家臣、明智光秀の供養塔
信長の家臣、明智光秀の供養塔。何度新しくしても、中央の丸石にひびが入ってしまうという不思議な伝承がある(右)。
豊臣家一族の供養塔群
(左)豊臣家一族の供養塔群。/(右)徳川家康の次男、結城秀康とその母の廟所。二棟並んだ石造りで、国の重要文化財に指定されている。
徳川二代将軍の秀忠夫人、お江の供養塔
徳川二代将軍の秀忠夫人、お江の供養塔。奥之院で最も大きな五輪塔で、「一番石」と呼ばれている。