塩崎さんが乳がんの告知を受けたのはまだ33歳のことだった。経営していたドレスのレンタルショップを閉め、会社も健康も失って残ったのは“患者”というアイデンティティのみ。そこからどう立ち上がり、二度目の起業を果たしたのか――。

闘病経験から生まれたブランド

「『患者さん』と呼ばれて死ぬのは悲しい。だから、私の作る服は『患者らしくより私らしく』がコンセプトなんです」。

TOKIMEKU JAPAN社長 塩崎良子さん

花のような笑顔でそう話すのは、TOKIMEKU JAPANの塩崎良子社長だ。自身で作った「KISS MY LIFE」というケア・介護用品ブランドは、パジャマや医療ケア用帽子に機能性だけでなくファッション性を取り入れ、女性患者の心をつかんでいる。

これは塩崎さんが乳がんになり、闘病した経験から生まれたものだった。

どんぶり勘定のオーナーに代わって経営者に

塩崎さんは1980年に千葉で生まれた。音楽が大好きで、高校の頃からバンドを立ち上げ、大学を1年でやめてDJをやるなど、音楽の道で生きていくことを模索していた。

小さい頃から「変わり者」と周囲に言われていた塩崎さんは、どこかにとどまることを好まず、就職する気にもならなかった。ファッションも好きだったので、セレクトショップでバイヤーをしながら日々を過ごしていた。

六本木のセレクトショップで働いていたころ、勤め先の給与支払いが滞りがちになり、スタッフの離職が続いた。会計の知識があるわけではなかったが、なんとなく気にかかった塩崎さんは、オーナーに帳簿を見せてもらうと、驚くほどのどんぶり勘定であることが分かった。「会社がなくなっては困る!」と青ざめ、勉強して仕入れの整理を始めることに。

結局半年後にオーナーは店を閉めることにしたが、「それならば私にやらせてほしい」とオーナーから事業を売却してもらった。これが経営者人生の始まりだった。塩崎さんが25歳のときだ。

アルバイトをしながら従業員に給料を払う

はじめは自転車操業が続いた。スタッフに給料を払うために昼は他店で、夜はバーでアルバイトをしていたほどだ。1年後に事業は軌道に乗ったが、トレンドを追って大量に仕入れて大量に廃棄するというアパレル業界の「常識」に疑問を持つようになる。そして20代の終わりには、日本ではほとんどなかった結婚式のパーティドレスなどを取り扱う衣服のレンタル専業ショップへと転換する。

ヒントを得たのは、海外への商品買い付けで乗った飛行機の中。当時大ブームだった「SEX AND THE CITY」を鑑賞していると、登場人物が服をレンタルするシーンがあったのだ。

その業態転換もうまくいき、着実に業績は伸びた。ただ、自身では「こんなものかな」とどこか冷めていた。海外旅行が好きなので買い付けも旅行の一環。経営をしているというより、好きなことの延長上に仕事が乗っかっているという気持ちが強かった。