生まれる時代が違えば、キャリアウーマンに

高校を卒業して何年も経って同窓会に参加した際、友人たちから「交換留学の情報をどこで知ったの?」と聞かれたのには驚きました。その情報を知っていたら選考会に参加したかったと言うのです。母は新聞を隅々まで丁寧に読み、気になる記事をスクラップしていたので、留学生募集の小さな記事に気づくことができたのでしょう。母は7年前、99歳で亡くなりました。亡くなる少し前に聞いたのですが、私の留学が決まったとき、近所の人から「あんた、娘さんをアメリカなんかによう出しゃーすね。パンパンになって帰ってくるで」と言われたそうです。そんなひどい話、当時、母からひと言も聞いたことはありませんでした。

母はよく「転んでもただでは起きない」と口にする、常に前向きで根性のある人。家庭の主婦という感じはなく、いつも凜(りん)としていました。私も大阪での生活が長かったので感じるのですが、母の進取の気性、合理性、折衝力、情報収集能力は大阪商人かたぎ、ごりょんさん(西日本での古い商家の妻や娘の呼称)かたぎからきているのではないでしょうか。そんな母は、生まれる時代が違えばキャリアウーマンとして大活躍していたでしょうね。

私が創設した“ウィメンズ・エンパワメント・イン・ファッション(WEF)”は、ファッション関連分野で働く女性を支援する団体ですが、ファッション業界に限らず、女性がビジョンを持ち、活躍できる社会をつくり出すことを応援したいと思っています。現在は大変革の時代。これまでの常識を覆すことのできる環境が整ってきています。母がなしえなかったキャリアの道、男性がつくり上げたヒエラルキーを踏襲するのではなく、女性が新しい価値を生み出し、活躍できる社会を切り開いていってほしいですね。

1.民生委員として困窮家庭をケアしていた母。金の台座付きバッジは長年の功労が認められた証し。2.尾原さんが中学3年生の頃、家族で出かけた東山植物園でのスナップ。3.尾原さんが24歳のときの家族写真。4.尾原さんが16歳でアメリカ留学へ旅立つ際、朝日新聞のカメラマンが撮影。新聞に掲載された写真。5.水晶のネックレス(4でも着用)は母のお気に入りで形見の品。6.母がスクラップした尾原さんの紹介記事と愛用のハサミ。

尾原蓉子(おはら・ようこ)
ウィメンズ・エンパワメント・イン・ファッション 創設者・名誉会長
大阪府出身。高校2年生でAFS交換留学生として米国へ。東京大学卒業後、旭化成入社。米国FIT卒、ハーバード・ビジネススクールAMP卒。ファッション業界の創成期から現在まで、業界をリードし続けている。NHK中央放送番組審議会委員長、経済産業省 ファッション政策懇談会座長などを歴任。

構成=江藤誌惠 撮影=国府田利光