“転んでも、ただでは起きぬ。どんな状況でも前向きに生きる”

母の記憶をたぐり寄せてみますと、私の行動や決断の端々に母の影響があったことに気づかされます。2018年秋、自分の仕事人生をつづった『ブレイクダウン・ザ・ウォール 環境、組織、年齢の壁を破る』(日本経済新聞出版社)を出版したのですが、本を書きたいと思ったのは、私の中に母へのオマージュが強く存在したからだと思います。私以上に母が直面し、打ち破った強固な壁を思うにつけ、彼女の強さをあらためて感じ、わが身にその血が流れていることに、深い感謝と誇りを感じています。

あどけなさが残る17歳頃の母。この頃から一家の大黒柱として働いていた。

母・静子は、1911(明治44)年、大阪で銀行勤めをする祖父と庄屋の娘の祖母の間に長女として生まれました。聡明で観察力が高く、聞いたところによると、小学生のとき、算数の授業中、先生が黒板に問題を書き終わらぬうちに手を挙げ、正解したが叱られたという逸話も。先生が次に何を書くのかクセや行動パターンを見抜いていたのでしょうね。その後、母が女学校を出たばかりの17、18歳の頃、祖父が事業に失敗。長女である母が家計を支えなくてはならなくなり、大阪にある大手総合商社へ就職し、タイピストとして働き始めました。最初は和文をタイプしていましたが、英文のほうがお給料がいいからと、英文タイピストに。しかし、ただ英文を写すだけのタイピストより、文法の間違いを修正しながら打てるタイピストのほうがお給料を出してもらえると考えた母は、英語を習いにYWCA(キリスト教女子青年会)の夜学へ。英語を身につけてからは、大卒男性の3倍のお給料がもらえるようになったそうです。母の稼ぎに家族の生活がかかっているので、じっとお給料が上がるまで待っているわけにはいきません。働く条件やお給料について、母は自分で会社と掛け合ったのでしょう。あの時代、女性が仕事を持ち、男性以上の高給を取り、英語を習い、YWCAの活動で外国人とテニスに興じるなんて……周囲からの風当たりは、さぞ強かったことでしょう。必要に迫られて仕事をしていたとはいえ、母は私以上に高い壁を前に闘っていたのだと思います。

26歳のとき父と結婚して間もなく、仕事は辞めてしまいましたが、私は折につけ、母が働いていた頃の話を聞きながら育ちました。その頃から「仕事をする女性はかっこいい! 私も将来は自立できる“何か”を身につけたい」と思っていました。

人生の節々で受けた、母からの適切なアドバイス

母が28歳のときに私、4年後に妹、8年後には弟が誕生。子どもたちにはとても教育熱心でした。でも、「勉強しろ」と言うわけではありません。受験のときですら「勉強しろ」ではなく、「早く寝なさい」と言われていましたからね。そして、良い学校や先生を選んでくれました。父は会社員で転勤が多かったのですが、引っ越し先の学区の学校へただ通うのではなく、引っ越し先近辺の学校をよくリサーチし、時には学区外へ越境することも。高校進学時も進路を絞りきれずにいる私に対し、名門であるとかないとかではなく、私の気性に合った学校かどうかを第一にアドバイスしてくれました。私は東京大学出身ですが、女性が東京大学に進もうとすると、まず「嫁のもらい手がなくなる」と言われたものですが、母はそんなことはお構いなしに応援してくれました。ただ、私が就職した60年前後、四大卒女性を雇ってくれる企業はほとんどなかったので、公務員試験を受けようと思っていたのですが、そのときばかりは反対されました。母は役人が嫌いだったようなんです。

職場でのひとコマ。1930年頃、キャリアウーマンとして働く母・静子さん。商社で英文タイピストとして働き、自ら賃金交渉まで行っていたようだ。

私の人生を大きく変えた高校時代の留学もきっかけは母でした。新聞の「高校交換留学AFSの試験を文部省(当時)が実施」という記事を目にした母は、まず父に相談。父は小学生の頃、養子に出され、東京商科大学(現・一橋大学)を出た苦労人。口数が少なく、物事をよく考える人でした。若いときは、世界を股にかける商社マンになることを夢見ていたのですが、戦争で諦めざるをえなかったこともあり、「いいじゃないか」と賛成してくれ、私にどうかと勧めてくれたんです。当時のアメリカはすべてを兼ね備えた憧れの地。私は二つ返事で「やる、やる!」と答えました。選考試験の最終段階で、英会話力を磨かなくてはならず、どうしたものかと思案していると、母が近所の米軍将校夫妻のお宅にお願いすることを提案してくれました。お願い文を英語で書いて暗記したものの、引っ込み思案のためになかなか行動に移せない私を見かねた母が、私より度胸のある妹をサポート役に付けてくれました。

選考試験に合格し、アメリカ留学が決まると、母は京都まで生地を買いに行き、洋服を10着ほど縫ってくれました。でも、母のつくる洋服は派手で、当時の私は人と違うことが恥ずかしく感じていたので心から喜べませんでした。なので、アメリカで友人から「That's so different!」と言われたときは、「やっぱり」と思ってしまったんです。ショックで沈んでいると、滞在先のホストシスターが「それは褒め言葉よ」と教えてくれるじゃないですか。人と違うことが個性だと知り、そこで初めて母お手製の洋服を褒めてもらい、それを着る私を褒めてもらった喜びを感じることができました。そのときの経験は、その後の私の価値観や考え方を大きく変えました。

母は常に人や世の中を冷静に観察し、物の道理を見極める目を持つ人でしたが、私と同じように、母も英語を学ぶために通ったYWCAで異文化に触れ、同じような経験をしたのかもしれませんね。

生まれる時代が違えば、キャリアウーマンに

高校を卒業して何年も経って同窓会に参加した際、友人たちから「交換留学の情報をどこで知ったの?」と聞かれたのには驚きました。その情報を知っていたら選考会に参加したかったと言うのです。母は新聞を隅々まで丁寧に読み、気になる記事をスクラップしていたので、留学生募集の小さな記事に気づくことができたのでしょう。母は7年前、99歳で亡くなりました。亡くなる少し前に聞いたのですが、私の留学が決まったとき、近所の人から「あんた、娘さんをアメリカなんかによう出しゃーすね。パンパンになって帰ってくるで」と言われたそうです。そんなひどい話、当時、母からひと言も聞いたことはありませんでした。

母はよく「転んでもただでは起きない」と口にする、常に前向きで根性のある人。家庭の主婦という感じはなく、いつも凜(りん)としていました。私も大阪での生活が長かったので感じるのですが、母の進取の気性、合理性、折衝力、情報収集能力は大阪商人かたぎ、ごりょんさん(西日本での古い商家の妻や娘の呼称)かたぎからきているのではないでしょうか。そんな母は、生まれる時代が違えばキャリアウーマンとして大活躍していたでしょうね。

私が創設した“ウィメンズ・エンパワメント・イン・ファッション(WEF)”は、ファッション関連分野で働く女性を支援する団体ですが、ファッション業界に限らず、女性がビジョンを持ち、活躍できる社会をつくり出すことを応援したいと思っています。現在は大変革の時代。これまでの常識を覆すことのできる環境が整ってきています。母がなしえなかったキャリアの道、男性がつくり上げたヒエラルキーを踏襲するのではなく、女性が新しい価値を生み出し、活躍できる社会を切り開いていってほしいですね。

1.民生委員として困窮家庭をケアしていた母。金の台座付きバッジは長年の功労が認められた証し。2.尾原さんが中学3年生の頃、家族で出かけた東山植物園でのスナップ。3.尾原さんが24歳のときの家族写真。4.尾原さんが16歳でアメリカ留学へ旅立つ際、朝日新聞のカメラマンが撮影。新聞に掲載された写真。5.水晶のネックレス(4でも着用)は母のお気に入りで形見の品。6.母がスクラップした尾原さんの紹介記事と愛用のハサミ。

尾原蓉子(おはら・ようこ)
ウィメンズ・エンパワメント・イン・ファッション 創設者・名誉会長
大阪府出身。高校2年生でAFS交換留学生として米国へ。東京大学卒業後、旭化成入社。米国FIT卒、ハーバード・ビジネススクールAMP卒。ファッション業界の創成期から現在まで、業界をリードし続けている。NHK中央放送番組審議会委員長、経済産業省 ファッション政策懇談会座長などを歴任。