人生の節々で受けた、母からの適切なアドバイス

母が28歳のときに私、4年後に妹、8年後には弟が誕生。子どもたちにはとても教育熱心でした。でも、「勉強しろ」と言うわけではありません。受験のときですら「勉強しろ」ではなく、「早く寝なさい」と言われていましたからね。そして、良い学校や先生を選んでくれました。父は会社員で転勤が多かったのですが、引っ越し先の学区の学校へただ通うのではなく、引っ越し先近辺の学校をよくリサーチし、時には学区外へ越境することも。高校進学時も進路を絞りきれずにいる私に対し、名門であるとかないとかではなく、私の気性に合った学校かどうかを第一にアドバイスしてくれました。私は東京大学出身ですが、女性が東京大学に進もうとすると、まず「嫁のもらい手がなくなる」と言われたものですが、母はそんなことはお構いなしに応援してくれました。ただ、私が就職した60年前後、四大卒女性を雇ってくれる企業はほとんどなかったので、公務員試験を受けようと思っていたのですが、そのときばかりは反対されました。母は役人が嫌いだったようなんです。

職場でのひとコマ。1930年頃、キャリアウーマンとして働く母・静子さん。商社で英文タイピストとして働き、自ら賃金交渉まで行っていたようだ。

私の人生を大きく変えた高校時代の留学もきっかけは母でした。新聞の「高校交換留学AFSの試験を文部省(当時)が実施」という記事を目にした母は、まず父に相談。父は小学生の頃、養子に出され、東京商科大学(現・一橋大学)を出た苦労人。口数が少なく、物事をよく考える人でした。若いときは、世界を股にかける商社マンになることを夢見ていたのですが、戦争で諦めざるをえなかったこともあり、「いいじゃないか」と賛成してくれ、私にどうかと勧めてくれたんです。当時のアメリカはすべてを兼ね備えた憧れの地。私は二つ返事で「やる、やる!」と答えました。選考試験の最終段階で、英会話力を磨かなくてはならず、どうしたものかと思案していると、母が近所の米軍将校夫妻のお宅にお願いすることを提案してくれました。お願い文を英語で書いて暗記したものの、引っ込み思案のためになかなか行動に移せない私を見かねた母が、私より度胸のある妹をサポート役に付けてくれました。

選考試験に合格し、アメリカ留学が決まると、母は京都まで生地を買いに行き、洋服を10着ほど縫ってくれました。でも、母のつくる洋服は派手で、当時の私は人と違うことが恥ずかしく感じていたので心から喜べませんでした。なので、アメリカで友人から「That's so different!」と言われたときは、「やっぱり」と思ってしまったんです。ショックで沈んでいると、滞在先のホストシスターが「それは褒め言葉よ」と教えてくれるじゃないですか。人と違うことが個性だと知り、そこで初めて母お手製の洋服を褒めてもらい、それを着る私を褒めてもらった喜びを感じることができました。そのときの経験は、その後の私の価値観や考え方を大きく変えました。

母は常に人や世の中を冷静に観察し、物の道理を見極める目を持つ人でしたが、私と同じように、母も英語を学ぶために通ったYWCAで異文化に触れ、同じような経験をしたのかもしれませんね。