19世紀後半の韓国(朝鮮)を率いていた王妃・閔妃(びんひ)は、女性独裁者として政治を思うがままに動かしていました。自分に従わない者は容赦なく弾圧し、処刑もためらわない恐怖政治。同時代を生きた福澤諭吉はそんな朝鮮を「地獄」と呼び、国交を断絶すべしと『脱亜論』に著します。日清戦争やロシアの三国干渉など、歴史的な出来事にも関わっている閔妃の狂気ぶりを振り返り、昨今の日韓関係を考えます。

福澤は朝鮮を「妖魔悪鬼の地獄国」と言った

昨年の12月20日、日本海において、韓国海軍の駆逐艦が海上自衛隊のP‐1哨戒機に対して火器管制レーダーを照射しました。これに対し、韓国は説明を二転三転させた挙げ句、海自機が「威嚇的な低空飛行」をしたとして、日本に謝罪を求めました。昨今、徴用工判決などをはじめ、日韓関係に重要な影響が及んでいます。

閔妃肖像(写真=Bridgeman Images/時事通信フォト)

134年前、朝鮮(李氏朝鮮)と日本との関係の軋轢の中で、一つの結論を導き出したのが福澤諭吉でした。福澤は中国に属国支配されていた朝鮮を憐れみ、金玉均(きんぎょくきん)ら若い改革派朝鮮人の独立運動を支援していました。彼らは日本の明治維新のような近代化を朝鮮で断行するべきという理想に燃えていました。

金玉均は1884年、朝鮮王朝に対し、改革クーデターを起こしますが、失敗。日本に亡命をして、福澤の庇護を受けます。その後、金玉均が上海へ赴いた際に、朝鮮王朝の刺客によって、暗殺されます。金玉均の遺体はソウルに運ばれ、逆賊として凌遅刑(りょうちけい、皮剥ぎ・肉削ぎの刑のこと)に処され、体をバラバラに切られ、首や手足を晒されました(朝鮮や中国では、死者にも容赦なく刑を処しました)。

福澤は金玉均が残忍な凌遅刑に処せられたことに怒り絶望し、1885年、新聞の社説に以下のように書いています。

「我輩は此の国(朝鮮のこと)を目して野蛮と評するよりも、寧ろ妖魔悪鬼の地獄国と云わんと欲する者なり」(1885年2月26日、『時事新報』より)

恐怖と狂気が響き渡る閔妃の宮殿

福澤が「妖魔悪鬼の地獄国」と表現した当時の朝鮮を率いていたのは朝鮮王妃の閔妃(びんひ)でした。朝鮮王で夫の高宗は愚鈍で、政治のことはわからず関心もなく、聡明な王妃に頼りました。そのため、閔妃が政治を取り仕切りました。

閔妃は1866年、15歳で王妃となり、宮廷入りします。若い閔妃は寡黙な性格で、夜通し勉学に励み、王宮の蔵書を読み漁り、『春秋』を暗記したと言われます。学問に秀でた才女だったのです。王宮のしきたりに素早く順応し、特に食事の作法が優雅で気品に溢れていたといいます。

しかし、後年、巫堂(ムーダン)というシャーマン的な宗教にはまり、盛大な儀式を開催し、その費用で、国家財政を圧迫させたというような愚行も散見されます。閔妃の容貌については、長身であったとも、小柄で華奢であったとも伝えられています。

聡明な閔妃は政治的嗅覚にも優れ、権謀術数が巧みで、多くの人材を懐柔し操りました。一方、自身に従わない者に対しては、容赦なく弾圧し、その多くを処刑しました。閔妃は恐怖政治によって、権限を一手に握り、女独裁者として君臨していました。

閔妃が苛烈であったのは、政治だけではありません。後宮の宮女たちに対する取り締まりも尋常ではなかったと伝えられます。張氏という宮女が高宗の男子を出産したという知らせを聞いたとき、閔妃は逆上し、刀を手に取り、張氏の部屋へ怒鳴り込みに行きました。刀で戸を叩き切って乱入し、「お前は命が惜しくないのか!」と叫び、張氏を脅しました。張氏は恐れおののき、泣いて命乞いをしました。

これは李朝末期の学者、黄玹(ファン・ヒョン)が著した『梅泉野録』に描かれた閔妃の行動の一節です。『梅泉野録』はその名の通り、「野史」であり「正史」ではありません。従って、どこまで、史料として信頼できるかわかりませんが、閔妃の性格の一端を表していると言えます。この他、『梅泉野録』に、閔妃が淫蕩に耽っていたことなどが書かれています。韓国ではしばしば、「閔妃を貶めるネタは日本人から発せられた」と言われますが、元々、黄玹のような当時の朝鮮人から、発せられたのです。