※本稿は、鶴間和幸『始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣集団』(朝日新書)の一部を再編集したものです。
始皇帝50年の波乱万丈
始皇帝嬴政の五〇年の生涯は、実に波乱に満ちたものであった。
秦の王室の人間でありながら、秦都咸陽の宮殿ではなく、敵対する趙の都邯鄲で生まれ、最期も旧趙国の離宮で亡くなった。
秦王になるはずも、皇帝になるはずもなかった秦の王室の人間が、予測もできない歴史の流れのなかで、偶然秦王に即位し、そして中国史上最初の天下の皇帝にまで上り詰めた。
そのような権力者ではあっても、つぎからつぎへと訪れる逆境において実にたくましく生きていったと思う。実際、嬴政が生涯に遭遇した危難は数知れなかった。しかし、その都度かれを取り囲む人材の力を借りつつ、乗り越えていった。
豊富な人材は、嬴政自身が呼び寄せたものである。だからこそ、人間嬴政の一生は興味深い。危難をどのように乗り越えたのかを振り返りながら、生涯を簡単に追ってみよう。
以下に、嬴政の一〇の危難を列挙した。近臣の力でそれらを乗り越えていったことに注目したい。
嬴政の生涯10の危難は幼少期に始まった
①誕生から九歳までの幼年・少年期には、趙都の邯鄲で母子ともに殺される危険があったが、大商人の呂不韋と邯鄲の母の家に救われた。
嬴政は、父の異人(のちに子楚と改名)が趙の都に質子(一種の人質)として生活していたときに、趙の女性との間に生まれた。父の子楚は秦の昭王の孫、秦の太子安国君(のちの孝文王)の子でありながら、王位を継ぐ順位にはなかったので、誕生した嬴政にも将来の保証はなかった。秦軍が趙を攻めるなかで、いつ殺されるかという危険があった。それを救ったのは、大商人呂不韋の知恵と、趙の豪族であった母の一族の保護であった。
②嬴政は、わずか一三歳(前二四七年)で秦王に即位した。呂不韋の算段で父の太子子楚が秦王(荘襄王)となったが、わずか三年余りで逝去したことで、一三歳の嬴政に秦の王位が回ってきた。新たな危難は、一三歳の嬴政にかかった重圧である。秦王室傍系の嬴政には、王室の嬴氏一族の圧力がかかった。
乗り越えられた大きな要因は、呂不韋や李斯ら外国人の有能な人材が、少年嬴政を支えたことであろう。呂不韋は多くの人材を食客として集めていたので、かれらの知恵が秦王を後押しした。李斯は、嬴政が将来帝王になるべき人物と見抜いた。そして少年秦王を対外的に守ったのは蒙驁、王齮ら昭王時代からの初期の老将軍たちであった。