秦の始皇帝は中国史初の天下統一をどのように成し遂げたのか。映画『キングダム』の中国史監修を務めた学習院大学名誉教授・鶴間和幸さんは「皇帝になるはずもなかった人間が、予測もできない歴史の流れで上り詰めた」という――。

※本稿は、鶴間和幸『始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣集団』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

中国陝西省西安市郊外に立つ秦の始皇帝像
写真=共同通信社
中国陝西省西安市郊外に立つ秦の始皇帝像(=2023年11月17日)

始皇帝50年の波乱万丈

始皇帝嬴政えいせいの五〇年の生涯は、実に波乱に満ちたものであった。

しんの王室の人間でありながら、秦都咸陽かんようの宮殿ではなく、敵対するちょうの都邯鄲かんたんで生まれ、最期も旧趙国の離宮で亡くなった。

秦王になるはずも、皇帝になるはずもなかった秦の王室の人間が、予測もできない歴史の流れのなかで、偶然秦王に即位し、そして中国史上最初の天下の皇帝にまで上り詰めた。

そのような権力者ではあっても、つぎからつぎへと訪れる逆境において実にたくましく生きていったと思う。実際、嬴政が生涯に遭遇した危難は数知れなかった。しかし、その都度かれを取り囲む人材の力を借りつつ、乗り越えていった。

豊富な人材は、嬴政自身が呼び寄せたものである。だからこそ、人間嬴政の一生は興味深い。危難をどのように乗り越えたのかを振り返りながら、生涯を簡単に追ってみよう。

以下に、嬴政の一〇の危難を列挙した。近臣の力でそれらを乗り越えていったことに注目したい。

嬴政の生涯10の危難は幼少期に始まった

①誕生から九歳までの幼年・少年期には、趙都の邯鄲で母子ともに殺される危険があったが、大商人の呂不韋りょふいと邯鄲の母の家に救われた。

嬴政は、父の異人(のちに子楚しそと改名)が趙の都に質子(一種の人質)として生活していたときに、趙の女性との間に生まれた。父の子楚は秦の昭王の孫、秦の太子安国君(のちの孝文王)の子でありながら、王位を継ぐ順位にはなかったので、誕生した嬴政にも将来の保証はなかった。秦軍が趙を攻めるなかで、いつ殺されるかという危険があった。それを救ったのは、大商人呂不韋の知恵と、趙の豪族であった母の一族の保護であった。

②嬴政は、わずか一三歳(前二四七年)で秦王に即位した。呂不韋の算段で父の太子子楚が秦王(荘襄そうじょう王)となったが、わずか三年余りで逝去したことで、一三歳の嬴政に秦の王位が回ってきた。新たな危難は、一三歳の嬴政にかかった重圧である。秦王室傍系の嬴政には、王室の嬴氏一族の圧力がかかった。

乗り越えられた大きな要因は、呂不韋や李斯りしら外国人の有能な人材が、少年嬴政を支えたことであろう。呂不韋は多くの人材を食客しょっかくとして集めていたので、かれらの知恵が秦王を後押しした。李斯は、嬴政が将来帝王になるべき人物と見抜いた。そして少年秦王を対外的に守ったのは蒙驁もうごう王齮おうきら昭王時代からの初期の老将軍たちであった。

中華統一の活力のもとになった負の記憶

③一九歳(前二四一年)の秦王には、合従軍の侵入によって国の存亡を左右される危難があった。東方五ヶ国の合従軍が、秦都の咸陽近郊まで侵略したのである。咸陽近郊の地と、祖父孝文王の陵墓の地を攻められた。

統一後の述懐から、嬴政の心にはこのときの負の記憶が一生残ったことがうかがえるが、それが嬴政の中華統一の活力のもとにもなった。再び攻め込まれないように、合従軍の結成を阻止し、東方六国を分断する必要がある。これは当時典客(外交官)を務めていた李斯の外交力と、将軍たちの働きで実現できた。そのようななかで信頼する蒙驁将軍を失ったのは大きかった。

④二二歳(前二三八年)のときにも、母と対立したことで大きな国難が訪れた。前年にも嬴政の弟・成蟜せいきょうが反乱を起こしていたが、その翌年に最大の内乱が起こったのである。母とその愛人・嫪毐ろうあいが反乱を起こし、秦国の中央を二分する内戦が起こった。

このときは、嫪毐に政権を奪われる危険があった。これを救ったのは、嬴政側に就いた昌平君、昌文君に代表される大臣や桓齮かんきらの将軍たちであった。呂不韋は処刑され、外国人排斥に反対した李斯が代わって嬴政を支えていくことになった。

みずから戦場に赴き危険に身を投じる

⑤三三歳(前二二七年)、前年に母を失った嬴政に突然、暗殺未遂という大きな危機が振りかかった。えんの太子丹が派遣した荊軻けいかが秦王の面前まで近づき、秦王を襲ったのである。このときは、みずからの剣で身を守った。暗殺されてもおかしくない状況を救ったのは、嬴政自身の生きる力であったと思う。嬴政はこの危難をバネにして六国を攻撃していった。

⑥三〇歳から三八歳(前二三〇〜前二二二年)にかけては、東方六国との十年戦争の渦中にあった。秦王として、時にみずから戦場に足を運び、危険のなかに身を投じた。王翦おうせん王賁おうほん蒙武もうぶ蒙恬もうてんら秦の将軍たちの行動と、東方六国を分断し、合従の暇も与えなかった李斯の策略がうまく機能した。

ひざまずく射手の兵馬俑
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秦王自身が戦地に赴く行動力は、将軍たちのよりどころでもあったが、秦の戦争にはいつでも敗北の危険はあった。実際、対楚戦ではいったんは二〇万の軍で敗北したが、六〇万もの軍で態勢を立て直した。若い李信、蒙恬の将軍たちは失敗し、老将軍の王翦が危機を救ったのである。三六歳の嬴政は、楚の旧都のちんに入り、将軍や兵士たちの士気を高めた。

天下統一でも終わらない重圧

⑦三九歳(前二二一年)で王から皇帝となり、統一を宣言して天下に君臨しようとした。これをあえて嬴政の危難の一つに数えたのは、一三歳の秦王嬴政にかかった重圧をはるかに超えるほどの、天下を治めるという重圧の只中にいたからである。

統一ですべてが終わったわけではない。旧六国の広大な領土をどのように治めていくのか、中央で議論が相次いだ。皇帝の任命した郡県の官吏で直接治めるのか、遠方の地には王を置いて治めるのか。前者の李斯の意見が通ったが、後者の丞相王綰おうわんの意見も排除されたわけではなかった。

天下の三六郡に守(行政)、尉(軍事)、監(監察)の官吏を置くといっても、それはあくまでも統一事業の目標であった。実態は秦に対する反抗に常時備えなければならなかった。

⑧四〇歳(前二二〇年)から最後の五〇歳(前二一〇年)までは、しばしば都を離れ、五回にわたる地方巡行を行った。そこでは統一に反対した旧六国の人々に襲われる危険がたえずあった。

実際に四二歳(前二一八年)、巡行に出発した直後、博浪沙の地で旧韓人の張良ちょうりょうに襲われた。四四歳(前二一六年)、都咸陽の蘭池でも盗賊に襲われた。荊軻と懇意にしていたちくという楽器の名手・高漸離こうぜんりが、楽器のなかに鉛を隠し入れて始皇帝嬴政を襲ったのも、東方巡行時のことであった。

死後も始皇帝を守ろうとする戦士たち

⑨四五歳(前二一五年)以降、秦は匈奴きょうどと百越との戦争の時代に入ったことで戦時体制の危機下となり、巡行は中断した。李斯とともに推進した焚書(前二一三年)坑儒(前二一二年)の政策は、嬴政のもとの近臣たちの絆を崩していくものであった。

鶴間和幸『始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣集団』(朝日新書)
鶴間和幸『始皇帝の戦争と将軍たち 秦の中華統一を支えた近臣集団』(朝日新書)

いままで許されていた異論が排除され、多くの者が処刑されることになった。過去の歴史に学び、現在に役立てることが、現在を批判する行動とされた。長城や阿房宮の土木工事の負担も大きかった。始皇帝嬴政に異論を唱えた長子扶蘇ふそも、蒙恬とともに北辺に送られた。

⑩五〇歳(前二一〇年)、第五回巡行の途上で病にかかり、旧趙国の離宮の沙丘平台で息を引き取った。後継者の太子を指名していなかったことから、嬴政の死後、秦帝国全体を統率する求心力が揺らいでいった。嬴政の人間力で結束してきた将相(将軍と丞相)の近臣たちの連携も、崩壊することとなる。始皇帝の死後、扶蘇と蒙恬は自害を迫られ、やがて李斯も極刑を受け、趙高ちょうこうも殺された。

始皇帝の波乱に満ちた生涯を見守った戦士たちのようが、地下に埋まっている。

第一秦天皇廟の一部と兵馬俑
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一九七四年に偶然発見され、現在もなお発掘が続く八〇〇〇体と推測される兵馬俑。かれらは実に穏やかな顔をした、始皇帝嬴政の側近の戦士たちである。人間嬴政のもとに結束していた過去のよき時代の戦士たちが、死後の世界まで主人を守ろうとする気概がうかがえる。