大学生以下の収入で数少ないポストの空きを待つ
だが、大学教員市場に新たな需要が発生することは全くなかった。少子化による大学経営の行き詰まりである。大学は、自前では必要最低限の教員だけを雇い、あとは非常勤講師等に安く講義を外注する始末。
ポスドクたちの賃金は、週に1回90分の講義を月に計4回こなして、おおむね3万円。都内であれば、大学生の家庭教師ですらこれより優に稼ぐはずだ。それでも、仕事がないよりはまし、とばかりに文系博士たちはこれを奪い合う。当然、年収は200万円以下。実は、この外注されやすい講義こそが、これまた困ったことに、女性の選択比率が高い「語学」等の教科でもある。
数少ない教員採用の現場でも女性は不利を被りやすい。ポストをめぐる熾烈(しれつ)な競争の主役は、あくまで男性である。大学教員の世界では、女性が占める割合は約20%にすぎないからだ。ここに少数派ならではの問題が生じる。いわゆる空きポストが出た場合、そこにどうやって食い込めるか、という点で。
純粋に能力や実績などの自助努力だけで物事が決まればそれにこしたことはないのだが、実際には指導教員ほかからの推薦がものをいう場合も多いし、その優先順位も、既婚男性>独身男性>女性とつけられることが珍しくない。
さらに、指導する側の女性教員の存在、特に教授が極端に少ないゆえに、アカデミアのなかで、女性の教員候補者は、上に立つ側の同性からの庇護(ひご)も受けにくい地位に立たされているといえよう。
自分たちを取り巻く優位性に無自覚な男性社会のなかでは、時に、「女子はいざとなったら結婚すればよいだろう」などといった声すら生じがちなことも否定しがたい事実だ。それは、女性の(研究・教育・学内行政や政治)能力に対する根強い偏見にもつながっている。そうしたことに嫌気がさし、この世界から自ら“降りる”女性博士も少なからずいる。
さて、見てきたように、ある大きな社会問題が生じるとき、そこでマイノリティである側――女性は、より弱い立場に置かれやすい。それは、構造的な問題であるにもかかわらず、本人の資質などと自己責任に帰結させる論調へと貶(おとし)められやすい。
女子が発言力を増し、社会変革を起こすまで、残念ながらその風潮は維持されるだろう。
1967年、福岡県生まれ。評論家。立命館大学等で教えたのち、文筆・評論活動へ。九州大学で博士号(人間環境学)取得。著書に『高学歴ワーキングプア』『高学歴女子の貧困』(いずれも光文社新書)など。浄土真宗本願寺派僧侶。筑紫女学園評議員。
撮影=吉澤健太