もし秀長が長生きしていたら…

ただし、その遺児が家禄を回復するには、秀吉がかれの武功を評価してやらねばならない。かれが青年期に達するまで、秀吉は生きていなければならなかったのである。

カリスマ経営者・秀吉の裁量に頼った人事システムが、秀吉の死後も運営できたかは疑わしい。よく「秀長が長生きしていれば、豊臣家は潰れなかった」という話を聞くが、秀長が秀吉の代わりに家臣の家禄を大幅減封・加増して信頼を得られるとは思えないからだ。

ただでさえ、人事評価というものは難しい。必ず不満が出る。

秀吉晩年の豊臣政権で文治派と武断派の対立が起きたのは、秀吉がすべての人事を把握することが難しくなり、石田三成などの文治派の側近に人事評価の一部を介入させたことにあるのではないか。秀吉がいなくなったら、たとえ秀長が政権を引き継いでもウマくいかなかったんじゃないのかというのが正直な感想である。

太平の世を築いた家康は…

家臣が死去して遺児が幼年だった場合、秀吉は遺児の実力を客観的に見極め、相応の家禄に減封した。では、家康はどうだったのか。家康は減封しない。

そもそも家康自身がその経験者である。父が死亡した時、家康は満6歳に過ぎなかった。その自分を家臣たちが必死に支えて、なんとか戦国大名として名を上げたのだ。

JR静岡駅前の松平竹千代(家康)像と今川義元像
撮影=木村直軌
JR静岡駅前の松平竹千代(家康)像と今川義元像

だから、家康は幼い遺児には同情的だった。

永禄10(1567)年に東三河一の国衆・戸田忠重が死去した際、遺児・虎千代はわずか5歳。家康は元服に際して偏諱へんきを与え、松平姓を与えて松平康長と名乗らせ、異父妹を嫁がせた。また、天正11(1583)年に信濃の国衆・依田信蕃が討ち死に。遺児・竹福丸は13歳。家康は元服に際して偏諱を与え、松平姓を与えて松平康国と名乗らせた。二人とものちに大名に列した。

戸田忠重の子・松平康長の肖像画
戸田忠重の子・松平康長の肖像画(画像=東京大学史料編纂所データベース/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)