阿茶の局など、武田遺臣の娘や未亡人を…
天正10(1582)年に甲斐武田氏が滅亡すると、信長はその遺臣狩りを命じたが、家康は秘かにかれらを庇護し、信長が死ぬとおおっぴらに家臣団に加えていった。そして、武田旧臣の未亡人や娘の何人かを側室とした。意外なことに、家康は三河譜代の娘を側室にしていない。しかし、武田・北条遺臣の娘や未亡人は側室に迎えていた。
『寛政重修諸家譜』で親族が家臣に取り立てられた時期を勘案すると、阿茶局が天正7(1579)年、お竹の方が天正8年頃で、お都摩の方(下山殿)が天正10年頃、お牟須の方が天正15年頃、お仙の方が天正16年頃に側室になったと考えられる。
阿茶局(1555~1637)は甲斐武田家臣・飯田直政の娘といわれ、神尾忠重に嫁ぎ2男をもうけたが、忠重の死後、天正7(1579)年に25歳で家康に召し出されたという。天正12(1584)年頃に流産し、家康との間に子はいない。才覚のある女性で、大坂冬の陣後の和睦交渉で外交手腕を発揮した。
お竹の方(?~1637)は、甲斐武田家臣・市川十郎左衛門昌永の娘とも、市川平左衛門昌忠の妹といわれ、天正8(1580)年10月に三女・振姫を生んだ。
天正11年に五男・武田信吉が生まれる
下山殿・お都摩の方(1564?~1591)は甲斐武田家臣・秋山虎康の娘で、天正11(1583)年9月に五男・武田信吉を生んだ。『徳川妻妾記』では穴山「梅雪の末弟である穴山彦八郎信邦の妻であった」が、離別させられ、家康への人身御供にされたという。そこら辺が正しいのかもしれない。家康は信玄を深く崇拝していたので、武田家にゆかりの深い女性を側室に置き、その子どもに武田姓を名乗らせたかったのだろう。
お牟須の方(?~1592)は、甲斐武田家臣・三井吉正の娘といわれるが、世代的には母親だと思われる。文禄元(1592)年に肥前名護屋で難産により子とともに死去した。
お仙の方(?~1619)は甲斐武田家臣・宮崎泰景の娘で、子はいない。