秀吉の妹は家康との再婚前に離縁していた
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で、徳川家康(松下洸平)が羽柴秀吉(池松壮亮)の妹・あさひ(倉沢杏菜)と再婚するいきさつが描かれる。旧来は秀吉が家康を臣下に組み入れるため、あさひを夫の副田甚兵衛(ドラマでは甚助、前原瑞樹)と無理矢理離縁させ、家康と再婚させたといわれていた。しかし、近年の研究では、本能寺の変の直後に副田甚兵衛が失態を犯し、あさひ夫妻は離婚させられていて、その後に、家康からあさひとの婚儀を申し込まれたとの説がある。
家康の正室としては築山殿が有名である。今川家重臣の娘で、義元の姪といわれるが、系図が混乱しているだけで姪ではないとの説もあり、判然としない。築山殿の年齢は不詳だが、家康より年上の可能性が高い。弘治3(1557)年、家康が16歳の頃に結婚し、長男・岡崎三郎信康、長女・亀姫をもうけたが、天正7(1579)年8月に家康は築山殿を家臣に殺害させ、さらに翌9月に信康を自害に追い込んだ(いわゆる「築山事件」)。
家康はこれに懲りたのか、継室を迎えなかったのだが、天正14(1586)年5月にあさひと再縁した。しかし、4年後の天正18(1590)年1月にあさひは死去。以後、家康は死ぬまで正室を迎えなかった。
家康は妻の身分にこだわらなかった?
研究者の本郷和人氏は「家康は『未亡人好み』で知られています。(中略)信長・家康の夫人たちは、みなさしたる名門の出身ではないのですね」と述べている(『戦国武将の明暗』)。しかし、調べてみると、家康の側室はさほど家柄が低くない。
西郡局(?~1606)は三河国衆・鵜殿長持の孫に生まれ、次女・督姫を生んだ。西郡局は「天正年中、浜松にて奥勤め、岡崎において督姫君誕生あり」(『家康の族葉』)というが、督姫は永禄8(1565)年生まれなので、天正年中(1573~1592)に奥勤めをして見初められたというストーリーには無理がある。「鵜殿長忠の女は家康に人質として送られたが、のち寵幸され督姫(良正院)を生んだ」(『三百藩家臣人名事典』)というのが実情であろう。
秀忠の母は三河国衆の孫娘で再婚
西郷局・お愛の方(1562~1589。1552生年説あり)は三河国衆・西郷正勝の孫娘で、父は戸塚忠春、母が正勝の娘にあたる。天正7(1579)年4月に家康の三男・徳川秀忠、翌天正8年9月に四男・松平忠吉を生んだ。父・忠春が討ち死にした後、西郷局の母が蓑正尚に再縁したので、その養女となり、従兄弟の西郷義勝に嫁いで一女をもうけた(一男一女説あり)。しかし、義勝も元亀2(1571)年に討ち死にし、家康に見初められた。西郡局と同じく、西郷家の人質として家康のもとに送られ、手が付いたのではないか。
家康の近くに奉公し“お手つき”になるパターン
これに対し、家康の次男・結城秀康の母、永見氏・お万の方(1548~1619)は卑賤(身分が低い、武家ではない)の出だったらしい。「三河池鯉鮒の住人永井(永見の誤りか)志摩守吉英の女であるといい、或いは尾州熱田社の禰宜村田意竹の女であるともいい、その生い立ちは明らかでないが、微賤の出と思われる。築山殿夫人に仕え、浜松において奥勤めをしていたところ」、家康の寵愛を受けたという(『家康の族葉』)。
秀康は天正2(1574)年2月に生まれ、幼名を於義伊、または於義丸という。ギギという魚に顔が似ていたからだという。この名前が示す通り、秀康は家康に疎まれていた。その理由として、自分の子ではないと疑ったという説や当時忌み嫌われていた双子だったからという説があるが、実際は実母の身分が低かったからだと思われる。
阿茶の局など、武田遺臣の娘や未亡人を…
天正10(1582)年に甲斐武田氏が滅亡すると、信長はその遺臣狩りを命じたが、家康は秘かにかれらを庇護し、信長が死ぬとおおっぴらに家臣団に加えていった。そして、武田旧臣の未亡人や娘の何人かを側室とした。意外なことに、家康は三河譜代の娘を側室にしていない。しかし、武田・北条遺臣の娘や未亡人は側室に迎えていた。
『寛政重修諸家譜』で親族が家臣に取り立てられた時期を勘案すると、阿茶局が天正7(1579)年、お竹の方が天正8年頃で、お都摩の方(下山殿)が天正10年頃、お牟須の方が天正15年頃、お仙の方が天正16年頃に側室になったと考えられる。
阿茶局(1555~1637)は甲斐武田家臣・飯田直政の娘といわれ、神尾忠重に嫁ぎ2男をもうけたが、忠重の死後、天正7(1579)年に25歳で家康に召し出されたという。天正12(1584)年頃に流産し、家康との間に子はいない。才覚のある女性で、大坂冬の陣後の和睦交渉で外交手腕を発揮した。
お竹の方(?~1637)は、甲斐武田家臣・市川十郎左衛門昌永の娘とも、市川平左衛門昌忠の妹といわれ、天正8(1580)年10月に三女・振姫を生んだ。
天正11年に五男・武田信吉が生まれる
下山殿・お都摩の方(1564?~1591)は甲斐武田家臣・秋山虎康の娘で、天正11(1583)年9月に五男・武田信吉を生んだ。『徳川妻妾記』では穴山「梅雪の末弟である穴山彦八郎信邦の妻であった」が、離別させられ、家康への人身御供にされたという。そこら辺が正しいのかもしれない。家康は信玄を深く崇拝していたので、武田家にゆかりの深い女性を側室に置き、その子どもに武田姓を名乗らせたかったのだろう。
お牟須の方(?~1592)は、甲斐武田家臣・三井吉正の娘といわれるが、世代的には母親だと思われる。文禄元(1592)年に肥前名護屋で難産により子とともに死去した。
お仙の方(?~1619)は甲斐武田家臣・宮崎泰景の娘で、子はいない。
なぜ五男と六男の間が10年近く空いた?
中村孝也氏はその著書『家康の族葉』で、家康が天正11(1583)年9月に「五男信吉を儲けてのち、まる10年間子供ができなかったのに」文禄元(1592)年になって急に、六男・忠輝をもうけたのは奇異だと感想を述べている。おそらく、この間、秀吉の妹・あさひを継室に迎えたので、彼女が天正18(1590)年1月に死去するまで、子どもをもうけなかったのであろう。さすがは家康、後年「律儀な内府(=内大臣)」と呼ばれただけある。換言するなら、その間、家康は避妊もしくは堕胎していた可能性がある。
お茶阿の方(?~1621)は庶民(農民?)の河村氏(一説に山田氏)の娘として遠江国金谷に生まれ、鋳物師の妻となり、一女をもうけた。代官がお茶阿の美貌をうらやんで夫を殺し、自分のものにしようとしたが、お茶阿は一人娘を連れて、鷹狩り中の家康に直訴して見初められ、文禄元(1592)年1月に六男・松平忠輝、七男・松平松千代を生んだ。双子である可能性が高いが、松千代を文禄3(1594)年生まれとする説もある。家康の側室の中でも最も身分が低く、そのため、忠輝は愛されなかった可能性が高い。
北条旧臣の娘、11歳と13歳も側室に
お亀の方(1573~1642)は石清水八幡宮の社家・志水宗清の娘で、美濃斎藤家の家臣・竹腰正時に嫁ぎ、天正19(1591)年に竹腰正信を産んだのち、夫と死別した。その後、豊臣秀吉の家臣・石川光元の側室となり、文禄3(1594)年に石川光忠を産んだが離縁され、家康に見初められたという。
しかし、生後間もない子を残して離縁されるというのは尋常ではなく、家康に見初められて離縁させられたというのが実態ではないか。文禄4(1595)年3月に八男・仙千代、慶長5(1600)年11月に九男・尾張徳川義直を生んだ。
天正18(1590)年の小田原合戦で北条家は滅ぼされ、家康がその旧領に転封となった。いわゆる関東入国である。
家康は北条旧臣の娘を側室としている。蔭山殿・英勝院はいずれも天正18年に10代前半で奥勤めしたと『幕府祚胤伝』に記述があるが、当時、蔭山殿は11歳、英勝院は13歳である(お久の方は生年不詳、いつ側室になったかも不明)。現在でいえば、まだ小学生である。いくら何でも側室というのは早すぎる。おそらく人質として差し出された女性に手を付けたのであろう。
家康には合計11人の男子が生まれた
蔭山殿・お万の方(1580~1653)は上総勝浦城主・正木頼忠の娘で、母親が再縁した蔭山氏広の養女となる。慶長7(1602)年に23歳で十男・紀伊徳川頼宣、翌慶長8年に十一男・水戸徳川頼房を生んだ。
お梶の方・英勝院(1578~1642)は北条家臣・太田康資の娘である。慶長12(1607)年に30歳で家康の五女・市姫を生んだが、市姫が早世してしまったので、蔭山殿の子・水戸徳川頼房、および結城秀康の次男・越前松平忠昌を養育した。家康の死後、お梶の方は落髪して尼となり、英勝院と名乗った。聡明な女性として有名で、秀忠や家光が旧事について諮問することもあったという。
お久の方(?~1617)は北条家臣・間宮康俊の娘で、文禄4年に家康の四女・松姫を生んだ。
晩年に家康が寵愛したお六の方の悲劇
お夏の方(1581~1660)は北畠旧臣・長谷川藤直の娘。『家康の族葉』によれば、慶長2(1597)年に17歳で側室になった。
お梅の方(1586~1647)は青木一矩の娘といい、家康の側室を経て、本多正純(正信の子)に下げ渡されたという。
お六の方(1597~1625)は今川旧臣・黒田直陳の娘で、英勝院の部屋子として、慶長年中に奥勤めした。晩年の家康が好んだものを、俗に「鷹殿、佐渡殿、お六殿」と呼ばれたほど寵愛され、慶長19(1614)年の大坂冬の陣では、陣中にまでお供した。家康の死後、秀忠の世話で旧足利家の下野喜連川家に再縁したが、寛永2(1625)年に日光東照宮参詣時に突然、亡くなった。雷に打たれたとも、香炉が割れた破片がもとで疵を負い、わずか29歳で死去したともいわれる。人々は家康の嫉妬によるものと噂した。