父の後妻が千代の養母になった
あとで年齢を考えると、母は十七歳のときに父の後妻に来たのであったが、来るとすぐに、私の弟になる薫が生まれ、次の弟の鴻が生まれ、それから妹の勝子が生まれた。それからまた、弟の光雄が生まれ、最後に弟の文雄が生まれたのであるが、この五人の弟妹たちに対してとった母の態度と、ただ一人の継子である私に対してとった母の態度とを比較すると、誰の眼にも明らかに見受けられる違いがあった。
たとえば、到来物のおはぎを見ると、弟妹たちは早く食べたいと言って、母にせがむ。このとき、私がその場に居合わせなかったときなど、「まアお待ちい。姉さまがお戻りてから分けて上げるけえ」と言って、弟妹たちを待たせる。あの、芝居などで見る継子いじめの反対なのであった。
弟妹4人が生まれたが、継子イジメはなし
この母の子供の育て方は、私たち兄妹に思わぬ影響を与えたものであった。私と私の五人の弟妹たちとは、世にも仲の好い兄妹になったからである。後年、私が大森の馬込村に住んでいたとき、つい近所に、広津和郎(編集部註:『風雨強かるべし』などの小説家)が住んでいた。「宇野さん、あなたは不思議な人ですね。あなたは兄妹たちの姉さんではなく、まるで男の、総領ででもあるように、よく兄妹たちの面倒を見ますね。そして、また、あなたの弟妹さんたちもあなたによく懐いていて、みんなで仲よくしているのを見ると、ほほえましい」。
広津はあの母が私たちをこんな風に育てたのだと言うことを知らないのである。私はあの母が自分にとっては生母でないと知りながら、そのままの母を愛していたのであった。
