朝ドラ「ブラッサム」(NHK)のモデルである作家の宇野千代。昭和58年(1983)、86歳のときに刊行した自伝『生きて行く私』は100万部を超える大ベストセラーとなった。その角川文庫版より冒頭の一編「よくぞ生んでくれた」を紹介する――。

宇野千代の生母は肺病で死んだ

「よくぞ生んでくれた」

いま(昭和五十七年)から八十四年前に、私は周防ノ国岩国大字川西の八百七十七番地の家に生まれた。山口県岩国と言わず、周防ノ国岩国と言う方が、私の昔風の感覚に似合っているからである。父は宇野俊次、母は土井トモ、父母の姓は違っているが、私は彼等の私生児ではない。私が早く生まれたので、入籍の手続きを怠っただけのことである。

宇野千代の実家
宇野千代の実家、山口県岩国市、2013年撮影(写真=Heartoftheworld/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

土井トモは私を生んで、一年半しか生きてはいなかった。病気はその頃で言う肺病で、肺病やみのいる家の前を通るときに人々は、「肺病はうつるぞう。早う、駆けって行かにゃあ」と言って駆け抜けたものだと言う。それほどに恐れられた病気であった。まだ、やっと歩けるか歩けないかの私は、トモの寝ている寝床のぐるりを、赤い提灯を持って、よちよちと歩いていた。「この児のことが気にかかってのう、死んでも死に切れんでよ」と言って、トモは泣いたと言う。

この話は少女小説か、いまのテレビドラマの中のことであるように聞こえる。しかし、私は、その稚おさなかった頃の自分の話を人から聞いても、悲しくはならなかった。トモの言ったと言う話をそのまま信じても、悲しくはならなかった。母と言うものの姿は一度も見たことがなかったので、恋しいとか懐かしいとか言う生の感情が、私の中には少しもなかったからである。

80歳過ぎて、顔も憶えていない母に感謝

しかし、私が八十を越したのちのことである。或るとき、ものを考えていて、私と言うこの生身の体が、この世に生まれ出て来た不思議さに考えついたとき、ふいに、あの、姿もどんなであったか思い浮かばない、あの若かった母に感謝したいような気になった。よくこの私を生んでくれた、とでも言うような、何か、湯のように温かいものが、胸の中を流れるのを感じたものである。

1歳で生母と死別し、父の実家へ

母が死んでからしばらくの間、私は高森と言うところにあった父の生家へ預けられたと言う。父の生家は私の家のある川西から、四里(約十六キロメートル)ほど奥にあった。奥と言うのは町中ではない、山の方に向かって行く方向を言うのであった。もの心ついてからも、私はたびたび、この高森の家へ行ったが、四里の山道を人力車に乗って行ったこともあり、馬の背に乗って行ったこともあり、歩いて行ったこともある。山道と言っても、山陽道の本道であるから、それほど険しい道ではない。峠の茶屋で休んで、外郎ういろうと言う、白い羊羹ようかんのような菓子を食べるのが愉しみであった。

峠を下りてからだんだんと山深く登って行き、高森まで出ると、俄にわかに広い往還になる。その広い往還の中に一筋、小さな流れがあって、両岸は柳の並木で、その並木の外側で道は二つに別れていて、ちょっとした見栄の好い町の家が列んでいる。父の生家はその町並の中ほどにあった。

地元では有名な造り酒屋「宇野酒造」

私はいまでも、高森のこの広い往還を思い出すたびに、なぜ、あの山奥に、ふいにあんなに美しい町並があったのか、不思議に思う。父の生家があったために、そこのほんの一町(約百十メートル)ほどの町並が、あんなに美しい町並になっていた訳でもないのに、ひょっとしたら、そう言う理由ではなかったかと、私は錯覚する。

父の生家は父祖代々の造り酒屋で、近在に聞こえた分限者ぶげんしゃであった。その家の往還沿いには、太い格子の入った白壁がどこまでも続いていた。軒のきには「宇野酒蔵」と太い字を彫った部厚い看板がかけてあって、その下に、大きな、提灯のような形をした蜂の巣があった。

酒蔵
写真=iStock.com/Loco3
※写真はイメージです

店さきには夥おびただしい数の酒樽が積んであった。その前に檜の厚い板があり、大小の枡がかけてある。酒を買いに来る人たちの、小腰を屈かがめて這入はいって来るのに対して、「売ってやるぞよ」とでも言うような、一種横柄な態度で、番頭が酒を計ってやる。その主客転倒の有り様も異様とは思われていないのであった。店の奥の、一段と高くなった畳の上に、父の兄で、私にとっては伯父に当たる人が坐すわっていた。伯父は生まれながらの足なえであった。夏も冬も、炬燵こたつをおいて坐っていたが、叱咤しったするのではない、一種、張りのある声で、店の采配を振るっていた。

宇野家当主の伯父と美しい伯母

高森にいた間のことで、忘れられないことがあった。私は肺病やみのトモの子供で、体がとても弱かった。便が何日も出なかった。「いつでも、楊子のさきでせせって出したんですよ」と伯母はその話をしては笑った。せせって、と言うのは、楊子のさきでいじくって、と言うことなのであった。この伯母は噂に高い美しい人であったが、この美しい人が、足なえの伯父の妻であるのを、誰も不思議に思ってはいない。この家が特別の家である、と思われていたからなのか。

あれはつい二、三年前のことであったが、私は『残ってゐる話』と言う自分の作品を書くのに、私の生まれた家の歴史、と言うようなものを、どうしても知る必要があって、そうだ、あの稚い頃に、その家に預けられたり、少し大きくなってからもしばしば行ったことのある、あの父の生家は、いま、どうなっているだろうと思い、ほとんど六、七十年もの間、見ることもなかったその家へ行って見たのであるが、ちょうどあの伯父伯母夫婦から三代目の孫に当たる登美子さんが来ていて、家の中を案内してくれた。

83歳のときの宇野千代、1981(昭和56)年10月14日
写真=共同通信社
83歳のときの宇野千代、1981(昭和56)年10月14日

部屋の数は32、大名屋敷のような家

部屋の数が三十二あった。何千坪もある庭続きの地所の奥に、杜氏とうじその他、酒を作る職人たちの住んでいた長屋が続いていて、その長屋を出たところに、見上げるような冠木門かぶきもんのあるのを見て、私はちょっと吃驚びっくりした。稚い子供ではなく、現在の私が、昔の父の生家を見て、これは特別の家だなと思ったのだから不思議である。

あれはいつのときのことであったか、或あるとき、この高森の家から川西の家へ帰って見ると、家には新しい母が来ていた。「今日から、これがお前のお母じゃ」。父がそう言った。私はこの降って湧いたような母を、吃驚して眺めた。色の白い、それはきれいな人であった。私には自分を生んだ生母の記憶が全くなかったので、生母とこの新しい母とを比較して考えることが出来なかったのである。

父の後妻が千代の養母になった

宇野千代『生きて行く私』(KADOKAWA)
宇野千代『生きて行く私』(KADOKAWA)

あとで年齢を考えると、母は十七歳のときに父の後妻に来たのであったが、来るとすぐに、私の弟になる薫が生まれ、次の弟の鴻ひろしが生まれ、それから妹の勝子が生まれた。それからまた、弟の光雄が生まれ、最後に弟の文雄が生まれたのであるが、この五人の弟妹たちに対してとった母の態度と、ただ一人の継子である私に対してとった母の態度とを比較すると、誰の眼にも明らかに見受けられる違いがあった。

たとえば、到来物のおはぎを見ると、弟妹たちは早く食べたいと言って、母にせがむ。このとき、私がその場に居合わせなかったときなど、「まアお待ちい。姉さまがお戻りてから分けて上げるけえ」と言って、弟妹たちを待たせる。あの、芝居などで見る継子いじめの反対なのであった。

弟妹4人が生まれたが、継子イジメはなし

この母の子供の育て方は、私たち兄妹に思わぬ影響を与えたものであった。私と私の五人の弟妹たちとは、世にも仲の好い兄妹になったからである。後年、私が大森の馬込村に住んでいたとき、つい近所に、広津和郎(編集部註:『風雨強かるべし』などの小説家)が住んでいた。「宇野さん、あなたは不思議な人ですね。あなたは兄妹たちの姉さんではなく、まるで男の、総領ででもあるように、よく兄妹たちの面倒を見ますね。そして、また、あなたの弟妹さんたちもあなたによく懐いていて、みんなで仲よくしているのを見ると、ほほえましい」。

広津はあの母が私たちをこんな風に育てたのだと言うことを知らないのである。私はあの母が自分にとっては生母でないと知りながら、そのままの母を愛していたのであった。