1歳で生母と死別し、父の実家へ
母が死んでからしばらくの間、私は高森と言うところにあった父の生家へ預けられたと言う。父の生家は私の家のある川西から、四里(約十六キロメートル)ほど奥にあった。奥と言うのは町中ではない、山の方に向かって行く方向を言うのであった。もの心ついてからも、私はたびたび、この高森の家へ行ったが、四里の山道を人力車に乗って行ったこともあり、馬の背に乗って行ったこともあり、歩いて行ったこともある。山道と言っても、山陽道の本道であるから、それほど険しい道ではない。峠の茶屋で休んで、外郎と言う、白い羊羹のような菓子を食べるのが愉しみであった。
峠を下りてからだんだんと山深く登って行き、高森まで出ると、俄かに広い往還になる。その広い往還の中に一筋、小さな流れがあって、両岸は柳の並木で、その並木の外側で道は二つに別れていて、ちょっとした見栄の好い町の家が列んでいる。父の生家はその町並の中ほどにあった。
地元では有名な造り酒屋「宇野酒造」
私はいまでも、高森のこの広い往還を思い出すたびに、なぜ、あの山奥に、ふいにあんなに美しい町並があったのか、不思議に思う。父の生家があったために、そこのほんの一町(約百十メートル)ほどの町並が、あんなに美しい町並になっていた訳でもないのに、ひょっとしたら、そう言う理由ではなかったかと、私は錯覚する。
父の生家は父祖代々の造り酒屋で、近在に聞こえた分限者であった。その家の往還沿いには、太い格子の入った白壁がどこまでも続いていた。軒には「宇野酒蔵」と太い字を彫った部厚い看板がかけてあって、その下に、大きな、提灯のような形をした蜂の巣があった。
店さきには夥しい数の酒樽が積んであった。その前に檜の厚い板があり、大小の枡がかけてある。酒を買いに来る人たちの、小腰を屈めて這入って来るのに対して、「売ってやるぞよ」とでも言うような、一種横柄な態度で、番頭が酒を計ってやる。その主客転倒の有り様も異様とは思われていないのであった。店の奥の、一段と高くなった畳の上に、父の兄で、私にとっては伯父に当たる人が坐っていた。伯父は生まれながらの足なえであった。夏も冬も、炬燵をおいて坐っていたが、叱咤するのではない、一種、張りのある声で、店の采配を振るっていた。