鈴木雅は8年後に82歳で死去
25日の告別式は、植村が設立した富士見町教会で営まれた。花輪が並び、香典は袱紗に包みきれずに風呂敷で受けたほどで、総額は1800円にのぼったという。もっとも、会には3000円の借金が残っており、香典はその返済に消えた。上流家庭からもらった舶来品や着物の多くは質屋に入ったままで、足りない分は会の経営権を手放して埋めたと伝わる。雅はそれから8年後の昭和15年(1940年)6月11日、82歳で亡くなっている。死因など最期の詳しい様子は伝わっていない。
同じ『実地看護法』の序文で、和は看護婦の務めを、体の苦しみを和らげるだけでなく心の救いにまで及ぶ伝道と慈善の大事業と位置づけ、この本が「同業諸姉の参考ともならば光栄の到り」と記した。
後に続く看護婦たちへの言葉のなかで、いま読み返したいのが腸チフスの項の一節だ。ある患者の望みが自分の考えと違うたびに、心と体への害を比べて軽いほうを選んだと振り返り、こう書いた。「看病の方法はただ規則のみによりません。害のない限りはその意を容れねばなりません」。本の冒頭近くでも、看護婦は「唯規則にのみよること能わず」と説いている。
「赤誠もって天職を全うすべし」
和自身、質の悪い看護婦会の乱立を憂え、雅とともに内務省衛生局長の後藤新平に規則づくりを求めた一人だった。ドラマの柳生が語る規則づくりは、史実の二人の願いと重なる。大正4年(1915年)に全国共通の資格を定めた看護婦規則が内務省令として施行されると、和は版を重ねた『派出看護婦心得』の付録にその全文を収めた。規則の必要を知りながら、それだけでは患者の心に届かないとも考えていた。伝染病の看護婦の心得を説いた項は、次の言葉で締めくくられている。「天に声あり『赤誠(嘘偽りのない誠実な心)以て天職を全うすべし』」
『派出看護婦心得』の本文の結びでは、同業の女性たちにこう呼びかけた。文明が日進月歩で進む世にありながら、女性の社会にはまだ力も知恵もなく、「只だ風に動かさるる籾がらの如き有様なり」。そのうえで「同胞よ、我姉妹よ」と語りかけ、人の前ではなく神の前で忠実に務め、与えられた天職を全うするよう求めている。
金のために命まで差し出す賤業と見られていた仕事を、和は生涯をかけて天職に変えようとした。患者の心をくみ、自分の体も休ませながら、現場で工夫を重ねるという心得は、100年以上を経たいまも病院や訪問看護、介護の現場に通じる。「風に吹かれるだけの籾殻であってはならない」と仲間を励ました和の言葉。「風、薫る」も規則が生まれる時代を前にりんと直美が答えを出していく様を最後まで誠実に描いていた。
・参考資料
大関和『実地看護法』第5版(新友館、1926年)、同『派出看護婦心得』第6版(大関看護婦会、1919年)(いずれも国立国会図書館所蔵本からの大沼美雄氏による全文文字起こし、那須短期大学「大関和研究室」掲載)、『相馬愛蔵・黒光著作集1 穂高高原』(郷土出版社)、田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社)、亀山美知子『大風のように生きて 日本最初の看護婦大関和物語』(ドメス出版)、東京朝日新聞1932年5月24日付訃報欄(同書所収)、女子学院「特設サイト 大関ちかの歩みをたどって」、千代田区文化財サイト「馬場先門跡」、日経BOOKプラス「『風、薫る』大関和、日本のナイチンゲールは『わきまえない女』だった」(田中ひかる氏インタビュー)、さんたつ by 散歩の達人「大関和の東京を歩く(3)」ほか
1973年長野県生まれ。出版社、広告制作会社勤務を経てフリーライターに。ドラマコラム執筆や著名人インタビュー多数。エンタメ、医療、教育の取材も。著書に『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)など