鈴木雅は看護婦会を大関和に託した
見上愛、上坂樹里がW主人公を務めたNHK連続テレビ小説「風、薫る」が、ついに最終週を迎えた。内務省官僚の柳生(中村倫也)が看護婦の規則や試験をつくると語り、りん(見上愛)と直美(上坂樹里)は養成所を発足させ、看護婦を育てる側に回り始めた。
さらに、最終週では小説家志望だったシマケン(佐野晶哉)がりんに本を書くことを勧めた。りんのモチーフとなった大関和と、直美のモチーフとなった鈴木雅を追ってきた本連載も、今回で最後となる。ドラマの先にある和の後半生を、彼女自身が書き残した言葉とともにたどりたい。
史実の雅が東京・本郷に慈善看護婦会を開いたのは、明治24年(1891年)のことだ。外国の例にならって在宅の病人に看護婦を派遣する会で、個人経営の派出看護婦会としては日本初とされ、貧しい病人には無料で看護を行った。会はのちに東京看護婦会と名を改め、明治29年(1896年)には新潟・高田から戻った和が付属の講習所の講師となって、二人は再び肩を並べる。明治33年(1900年)に東京府看護婦規則が公布された翌年、雅は会の経営を和に託し、43歳で看護の第一線を退いた。
引退の理由ははっきりしない。病気がちの息子のそばにいるためという説があるほか、ドラマの原案者の田中ひかる氏は、看護婦を一律におとしめるような文言を含んだ規則に、トレインド・ナースとしての自負が強かった雅が傷ついたのではないかとみている。雅はその後、息子と京都で暮らし、晩年は静岡・沼津に移った。和と雅は互いのことをほとんど書き残していない。それでも、心血を注いで育てた会を託した相手が和だったことに、二人の信頼の深さが表れている。
日露戦争の戦勝行列での武勇伝
雅が退いて3年後の明治37年(1904年)、日露戦争が始まる。5月8日、日比谷公園で戦勝の祝賀会が開かれ、夜の提灯行列が二重橋へ向かう途中、馬場先門の枡形に群衆が押し込められて折り重なり、20人が亡くなった。ドラマ最終話でも日比谷で「デモで人が雪崩を打って倒れて、ケガ人が大勢って」というセリフがあったが、このとき東京看護婦会の看護婦十数人を率い、救護班として公園に詰めていたのが45歳の和だ。
和を慕った新宿中村屋の創業者・相馬愛蔵とその妻・黒光の著作集『穂高高原』は、この夜の和の姿を伝えている。知らせを受けた和は橋の欄干に登り、それを伝って群衆のただなかへ飛び込むと、倒れた人々を次々に抱き起こした。後ろから人波が押し寄せ、警官の制止もきかないと見るや、「貴官の剣を貸し給え」と叫んだという。その声に群衆が一瞬動きを止め、抜刀した警官が開いた道から、看護婦たちは負傷者を運び出したと伝わる。この夜の働きで和の名はさらに知られ、上流家庭から名指しで看護を頼まれることが増えた。
軍人の後方支援も献身的に行った
戦争のあいだ、和は銃後の活動にも奔走した。日本キリスト教婦人矯風会が兵士に送る慰問袋を集めるため、東京看護婦会の顧客である華族や財閥の家に協力を頼んで回り、夜遅くまで大八車で袋を回収した。凱旋部隊が品川駅や新橋駅に着く時刻を調べ、派出先の許しを得て、人力車で一日に何度も出迎えに通っている。当時の多くの日本人と同じく、和も国の戦争を正しいものと信じていたとみられる。のちの著書にある「看病婦の病床に侍するは軍人の戦場に向いたると同様であります」という一文にも、その時代の空気がにじむ。
明治40年(1907年)、和は命にかかわる大病を患う。療養先の那須湯本で書き上げたのが、翌年刊行の『実地看護法』だ(ドラマでは「実践看護法」という本が登場した)。大正15年(1926年)の第5版まで版を重ねている。序文で和は、「九死の際に出入し」ながら一命をとりとめ、生まれ故郷の那須の温泉で療養するあいだに長年の願いを果たせたと記し、「再生紀念(記念)として」と署名した。
大病した後に出した『実地看護法』
看護の手順を説く実用書だが、随所に和の人柄がのぞく。人の命は「地球の重きが如く」貴いと書き、病室でしゃべりすぎるのは「一の不品行」と戒めながら、黙ってばかりでは病人が寂しがるので「常に面白き話を研究して置くべき」だと説く。医師の領分に口を出すなと繰り返す一方で、患者の害になると知りながら家の者に伝えないのは「罪であります」と言い切る。
病人の心は子どものようなもので、無理も言えば難しい望みも口にするが、それはみな病気のせいだから、体の続くかぎりこたえるようにと書く。患者に心身の平和を与えることこそ「快癒を促す第一の看病法」だという。天然痘の患者に耐えがたいかゆみを我慢させるのは「実に同情に忍びません」とも記した。ただし、看護婦が一人で抱え込むことは戒めている。どれほど献身的でも体には限りがあり、疲れ果てては「却(かえっ)て患者の為め不幸です」として、助手を頼んで休むよう勧めた。
看護経験に基づく赤痢の治療法も
経験への自負と慎重さも読み取れる。赤痢の患者の下腹部を温める湿布の上に懐炉を当てる工夫には「自己流ですが、軽便で実用に適します」と添え、薬液浣腸を早いうちに十分施せば10日を待たずに治ることは「経験上確信する処であります」と書く。布団や衣類の熱気消毒は40分で菌が全滅するという説を紹介しつつ、「私は常に一時間と定めて置きます」と念を入れた。病気のときに髪をとかすのは悪いという言い伝えが残る家では「誠に仕にくい事がありますが」とこぼしながら、衛生上の必要を説いてとかさせたという。
伝染病を怖がる看護婦への厳しい言葉
回帰熱の患者を看たときの体験も書き残している。患者に付き添っていた看護婦が感染すると、和はほかの者を病室に入れず、自ら看護にあたった。高熱と激しい震えに襲われる看護婦の体を「固く手足を押え」、苦しみに耐えさせたという。20年以上看護に携わってきたが、あれほどの病人は見たことがないと振り返っている。
この本に先立って明治32年(1899年)に初版(題は『看護婦派出心得』)を出し、やはり版を重ねた『派出看護婦心得』では、厳しさがより強く出る。医師に見せる日誌は「ペン又は筆にてとるべし鉛筆を用ゆべからず、不敬なり」。伝染病の流行時に派遣されながら途中で引き揚げてくる看護婦は、信仰も、国に報いる節操も、同胞への愛情もなく、「猶禽獣に異らざるもの」とまで断じた。その一方で、家族と引き離され「寂寞たる隔離病舎」に入れられた患者の心中を思いやり、真心で看護するよう説いている。
息子と娘に先立たれ、信仰活動を熱心に
明治42年(1909年)、和は会員をクリスチャンに限った大関看護婦会を設立する。翌年には52歳で東京神学社(植村正久が設立したプロテスタントの神学校)に入学し、看護と伝道の二つの道を歩み続けた。その年に長男・六郎を33歳で亡くし、10年前には長女・心も結核のため20歳で失っていた。
報酬には若いころから無頓着で、入院費を払えない患者の分を肩代わりし、到来物は人に分け、借金を抱えても金は天下の回りものだと笑っていた。晩年、日本赤十字社のナイチンゲール記章を授与する話が持ち上がると、「そんなことをしたらせっかく積んだ天国の宝を失ってしまう」と断っている。
大正14年(1925年)には、看護の道へ導いてくれた植村正久と、婦人矯風会を率いた矢嶋楫子が相次いで亡くなる。翌年、和は始まって間もないラジオの家庭講座で「看護婦と家庭」をテーマに語った。昭和4年(1929年)に脳溢血で倒れ、会は甥の妻・川原貞に託した。半身不随となった和の世話は妹の釛があたり、相馬愛蔵は見舞金を手にたびたび訪ねてきたという。
73歳で死去、「日本最初の看護婦」と報じられる
昭和7年(1932年)5月22日午後11時20分、本郷弓町の会の建物で、74歳の誕生日を翌日に控えて息を引き取った。2日後の東京朝日新聞は「日本最初の看護婦」の見出しで訃報を伝えた。そして、養成所に入る際に「娘としてははしたない仕事」という世評を一蹴した和を、「職業婦人の先べんをつけた」と評した。
鈴木雅は8年後に82歳で死去
25日の告別式は、植村が設立した富士見町教会で営まれた。花輪が並び、香典は袱紗に包みきれずに風呂敷で受けたほどで、総額は1800円にのぼったという。もっとも、会には3000円の借金が残っており、香典はその返済に消えた。上流家庭からもらった舶来品や着物の多くは質屋に入ったままで、足りない分は会の経営権を手放して埋めたと伝わる。雅はそれから8年後の昭和15年(1940年)6月11日、82歳で亡くなっている。死因など最期の詳しい様子は伝わっていない。
同じ『実地看護法』の序文で、和は看護婦の務めを、体の苦しみを和らげるだけでなく心の救いにまで及ぶ伝道と慈善の大事業と位置づけ、この本が「同業諸姉の参考ともならば光栄の到り」と記した。
後に続く看護婦たちへの言葉のなかで、いま読み返したいのが腸チフスの項の一節だ。ある患者の望みが自分の考えと違うたびに、心と体への害を比べて軽いほうを選んだと振り返り、こう書いた。「看病の方法はただ規則のみによりません。害のない限りはその意を容れねばなりません」。本の冒頭近くでも、看護婦は「唯規則にのみよること能わず」と説いている。
「赤誠もって天職を全うすべし」
和自身、質の悪い看護婦会の乱立を憂え、雅とともに内務省衛生局長の後藤新平に規則づくりを求めた一人だった。ドラマの柳生が語る規則づくりは、史実の二人の願いと重なる。大正4年(1915年)に全国共通の資格を定めた看護婦規則が内務省令として施行されると、和は版を重ねた『派出看護婦心得』の付録にその全文を収めた。規則の必要を知りながら、それだけでは患者の心に届かないとも考えていた。伝染病の看護婦の心得を説いた項は、次の言葉で締めくくられている。「天に声あり『赤誠(嘘偽りのない誠実な心)以て天職を全うすべし』」
『派出看護婦心得』の本文の結びでは、同業の女性たちにこう呼びかけた。文明が日進月歩で進む世にありながら、女性の社会にはまだ力も知恵もなく、「只だ風に動かさるる籾がらの如き有様なり」。そのうえで「同胞よ、我姉妹よ」と語りかけ、人の前ではなく神の前で忠実に務め、与えられた天職を全うするよう求めている。
金のために命まで差し出す賤業と見られていた仕事を、和は生涯をかけて天職に変えようとした。患者の心をくみ、自分の体も休ませながら、現場で工夫を重ねるという心得は、100年以上を経たいまも病院や訪問看護、介護の現場に通じる。「風に吹かれるだけの籾殻であってはならない」と仲間を励ました和の言葉。「風、薫る」も規則が生まれる時代を前にりんと直美が答えを出していく様を最後まで誠実に描いていた。
・参考資料
大関和『実地看護法』第5版(新友館、1926年)、同『派出看護婦心得』第6版(大関看護婦会、1919年)(いずれも国立国会図書館所蔵本からの大沼美雄氏による全文文字起こし、那須短期大学「大関和研究室」掲載)、『相馬愛蔵・黒光著作集1 穂高高原』(郷土出版社)、田中ひかる『明治のナイチンゲール 大関和物語』(中央公論新社)、亀山美知子『大風のように生きて 日本最初の看護婦大関和物語』(ドメス出版)、東京朝日新聞1932年5月24日付訃報欄(同書所収)、女子学院「特設サイト 大関ちかの歩みをたどって」、千代田区文化財サイト「馬場先門跡」、日経BOOKプラス「『風、薫る』大関和、日本のナイチンゲールは『わきまえない女』だった」(田中ひかる氏インタビュー)、さんたつ by 散歩の達人「大関和の東京を歩く(3)」ほか