伝染病を怖がる看護婦への厳しい言葉
回帰熱の患者を看たときの体験も書き残している。患者に付き添っていた看護婦が感染すると、和はほかの者を病室に入れず、自ら看護にあたった。高熱と激しい震えに襲われる看護婦の体を「固く手足を押え」、苦しみに耐えさせたという。20年以上看護に携わってきたが、あれほどの病人は見たことがないと振り返っている。
この本に先立って明治32年(1899年)に初版(題は『看護婦派出心得』)を出し、やはり版を重ねた『派出看護婦心得』では、厳しさがより強く出る。医師に見せる日誌は「ペン又は筆にてとるべし鉛筆を用ゆべからず、不敬なり」。伝染病の流行時に派遣されながら途中で引き揚げてくる看護婦は、信仰も、国に報いる節操も、同胞への愛情もなく、「猶禽獣に異らざるもの」とまで断じた。その一方で、家族と引き離され「寂寞たる隔離病舎」に入れられた患者の心中を思いやり、真心で看護するよう説いている。
息子と娘に先立たれ、信仰活動を熱心に
明治42年(1909年)、和は会員をクリスチャンに限った大関看護婦会を設立する。翌年には52歳で東京神学社(植村正久が設立したプロテスタントの神学校)に入学し、看護と伝道の二つの道を歩み続けた。その年に長男・六郎を33歳で亡くし、10年前には長女・心も結核のため20歳で失っていた。
報酬には若いころから無頓着で、入院費を払えない患者の分を肩代わりし、到来物は人に分け、借金を抱えても金は天下の回りものだと笑っていた。晩年、日本赤十字社のナイチンゲール記章を授与する話が持ち上がると、「そんなことをしたらせっかく積んだ天国の宝を失ってしまう」と断っている。
大正14年(1925年)には、看護の道へ導いてくれた植村正久と、婦人矯風会を率いた矢嶋楫子が相次いで亡くなる。翌年、和は始まって間もないラジオの家庭講座で「看護婦と家庭」をテーマに語った。昭和4年(1929年)に脳溢血で倒れ、会は甥の妻・川原貞に託した。半身不随となった和の世話は妹の釛があたり、相馬愛蔵は見舞金を手にたびたび訪ねてきたという。
73歳で死去、「日本最初の看護婦」と報じられる
昭和7年(1932年)5月22日午後11時20分、本郷弓町の会の建物で、74歳の誕生日を翌日に控えて息を引き取った。2日後の東京朝日新聞は「日本最初の看護婦」の見出しで訃報を伝えた。そして、養成所に入る際に「娘としてははしたない仕事」という世評を一蹴した和を、「職業婦人の先べんをつけた」と評した。