軍人の後方支援も献身的に行った
戦争のあいだ、和は銃後の活動にも奔走した。日本キリスト教婦人矯風会が兵士に送る慰問袋を集めるため、東京看護婦会の顧客である華族や財閥の家に協力を頼んで回り、夜遅くまで大八車で袋を回収した。凱旋部隊が品川駅や新橋駅に着く時刻を調べ、派出先の許しを得て、人力車で一日に何度も出迎えに通っている。当時の多くの日本人と同じく、和も国の戦争を正しいものと信じていたとみられる。のちの著書にある「看病婦の病床に侍するは軍人の戦場に向いたると同様であります」という一文にも、その時代の空気がにじむ。
明治40年(1907年)、和は命にかかわる大病を患う。療養先の那須湯本で書き上げたのが、翌年刊行の『実地看護法』だ(ドラマでは「実践看護法」という本が登場した)。大正15年(1926年)の第5版まで版を重ねている。序文で和は、「九死の際に出入し」ながら一命をとりとめ、生まれ故郷の那須の温泉で療養するあいだに長年の願いを果たせたと記し、「再生紀念(記念)として」と署名した。
大病した後に出した『実地看護法』
看護の手順を説く実用書だが、随所に和の人柄がのぞく。人の命は「地球の重きが如く」貴いと書き、病室でしゃべりすぎるのは「一の不品行」と戒めながら、黙ってばかりでは病人が寂しがるので「常に面白き話を研究して置くべき」だと説く。医師の領分に口を出すなと繰り返す一方で、患者の害になると知りながら家の者に伝えないのは「罪であります」と言い切る。
病人の心は子どものようなもので、無理も言えば難しい望みも口にするが、それはみな病気のせいだから、体の続くかぎりこたえるようにと書く。患者に心身の平和を与えることこそ「快癒を促す第一の看病法」だという。天然痘の患者に耐えがたいかゆみを我慢させるのは「実に同情に忍びません」とも記した。ただし、看護婦が一人で抱え込むことは戒めている。どれほど献身的でも体には限りがあり、疲れ果てては「却(かえっ)て患者の為め不幸です」として、助手を頼んで休むよう勧めた。
看護経験に基づく赤痢の治療法も
経験への自負と慎重さも読み取れる。赤痢の患者の下腹部を温める湿布の上に懐炉を当てる工夫には「自己流ですが、軽便で実用に適します」と添え、薬液浣腸を早いうちに十分施せば10日を待たずに治ることは「経験上確信する処であります」と書く。布団や衣類の熱気消毒は40分で菌が全滅するという説を紹介しつつ、「私は常に一時間と定めて置きます」と念を入れた。病気のときに髪をとかすのは悪いという言い伝えが残る家では「誠に仕にくい事がありますが」とこぼしながら、衛生上の必要を説いてとかさせたという。