秀吉は官位でも信長の次男より上に

信雄は、領国の伊勢を出立し、2月20日から22日の間には大坂城に入り、秀吉に臣下の礼を取ることになった。秀吉は前年11月22日、従三位大納言に任じられており、正五位下左近衛権中将の信雄を上回る官位となっており、名実ともに主家信雄を臣下として大坂城に呼び寄せたことを天下に知らしめた。信雄は大坂城の山里丸(茶の湯などを楽しむ風流の場)で秀吉主宰の茶会に参加したりして過ごした。

26日には上洛して正三位権大納言に叙任されたが、秀吉は3月10日、正二位内大臣に叙任され、官位の上での優位性も動かない。信雄が大坂城に滞在している時期の秀長宛秀吉書状(『堅田文書』)によると、秀長は信雄の女房衆らを自分の屋敷に滞在させるように指示されている。

織田信雄の肖像画(総見寺所蔵)
織田信雄の肖像画(総見寺所蔵)(作者不詳/Public domain/Wikimedia Commons

家康は臣下の礼を取ろうとせず…

一方、家康の臣従は難航したが、天正14年(1586)5月、妹「南明院」を家康の正室として嫁がせて義弟とし、それでも臣下の礼を取らない家康に対し、10月には最終手段として実母「大政所」を人質とすることでようやく家康の臣従化に成功する。表向きは家康に嫁した南明院に会うために大政所が下向したことにしていたが、実質は人質であることは周知されていた。一説には、実母を人質に出すことに対し秀長は「士の大なる恥辱ならん」と反対したが、秀吉に一蹴されたという(『稽徳編』)。そのまま信用するには躊躇する逸話である。

家康は大政所が岡崎に下向したことを確かめ、上洛の途に就き、10月26日、大坂に到着し、秀長の屋敷に宿泊した。秀吉が非公式で家康に対面し、翌日の謁見で秀吉に臣従する態度を演出するように依頼するというドラマなどでよく知られた場面でもある。まんざらの作り話ではなく、その時の様子が家康の家臣の日記『家忠日記』に生々しくつづられている。

「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(徳川美術館所蔵)
「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(徳川美術館所蔵)(徳川美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons