8カ月以上続いた戦いが終結

小牧・長久手の戦いは長期に及び、秀吉は戦場と京都・大坂間をせわしなく移動していたが、秀長も多忙を極め、その間、領国経営は家臣に任せていた。たとえば、天正12年(1584)5月11日付で、近江出身の家臣小堀三右衛門尉(小堀正次の兄)は、播磨の清水寺に対し、茶のことについて秀長から秀吉に上申したことで了承を得た旨を伝えている(『清水寺文書』)。

また、(天正12年)9月6日には、秀長家臣の矢野定満が清水寺に寺領の指出さしだし(領主に土地台帳を提出させること)を指示しており、定満自身が現地入りしていたことも分かる。小堀正次も清水寺に対し、12月19日付で寺領が安堵されたことを伝えるなど、戦時にあっても領国経営に意を注いでいた。

小牧山城(愛知県小牧市)
小牧山城(愛知県小牧市)(写真=Mont Blank rich/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

豊臣兄弟は織田家を超える存在に

秀吉にとって小牧・長久手の戦いは、主家織田家との戦いであり、見方によっては「謀叛むほん」とも呼ばれうるものであった。柴田勝家を滅亡に追い込み、織田家家臣の頂点に立ったが、その地位では満足できず、野心むき出しで織田家簒奪さんだつを謀る覚悟の決起でもあった。秀長が、当時のいみな「長秀」を秀長に改名したのは、小牧・長久手の戦いの最中であった。信長からの偏諱と思われる「長」字を下にし、秀吉由来の「秀」字を上に配し、織田家からの決別、信長のくびきからの脱却でもあった。もう誰に遠慮すべきものもなくなった。

信雄との講和後、実質的な調整役を果たしたのが、秀吉の「名代」となった秀長であった。年が明けた天正13年(1585。年次は推測)正月25日、秀長は信雄の家老飯田正家に対し、和睦の使者として訪問した時に歓待された礼を述べ、とくに秘蔵の駿馬を賜ったことを謝し、非常に満足した旨を伝えている。また、信雄への執り成しを頼み、追伸では上方に御用があれば対応するとし、やがて上洛された時に面会して話したい、と結んでいる。

長久手古戦場公園(愛知県長久手市)
長久手古戦場公園(愛知県長久手市)(写真=Bariston/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

秀長は兄の名代を務めるように

この中で信雄との具体的な和睦内容については富田平右衛門尉(一白)が進めているはずだが、まだ帰国していないので詳しく返事できなかったことを詫びている。3日後の正月28日、秀吉も飯田正家に対し、「秀長を名代として派遣したところ、大層な馳走をしてもらったと聞いている」と礼を述べ、「近々、三介殿(信雄)が御上洛されるので、その時に話そう」と伝えている。この頃には、秀長が秀吉の「名代」となる地位になっていた。