秀吉の姓はなぜ丹羽+柴田なのか

ではなぜ、秀吉は佐久間の名を取って「佐柴」や「間柴」と名乗らなかったのだろうか。それは柴田と佐久間は同類だったが、丹羽は毛色が違ったからだろう。

織田信長の家系は、祖父・信貞以前から勝幡しょはたに城を構え、父・信秀が那古野なごや城に移り、信長を那古野城に残して、さらに信秀が古渡ふるわたり城・末盛すえもり城に移った。従って、織田家臣団の中核を成す尾張衆は、父祖伝来の譜代である「勝幡譜代」、信長が育てた「那古野譜代」、後に信長の傘下に編入された「古渡・末盛譜代」などから成り立っていた(地名+譜代という分類は筆者が勝手に考案したもの)。

柴田勝家・佐久間信盛を代表とする「古渡・末盛譜代」は、動員能力の高い国人領主が多かった。かれらは必ずしも信長に対して従順ではなかったが、青年期の信長はかれらを重用せざるをえなかった。一方、丹羽長秀を代表とする「那古野譜代」は、小領主の次男・三男をカネで傭い、信長側近に取り立てられた者が多い。信長に対して従順で、智略や武功で頭角を現した(長秀も次男である)。

丹羽長秀の微妙な立ち位置

イメージしやすく例えるなら……株式会社織田建設の会議室。協力会社の佐久間組は従業員300名の地域でも有数の土木会社。その親類筋の柴田組はそこまで多くはないが、そこそこの従業員を抱えている。一方、丹羽設計事務所は従業員数名だが、技術に優れているので、なるべく多くのプロジェクトに噛ませたいし、もっとチャンスを与えたい。ただ、人を使ったことがないので、現場を任せるには不安が多い。その点、木下土建は兄弟2人しかいない名ばかり企業だが、とにかく労務管理がうまく、用地買収も丸く収めてしまう。当然、会議では佐久間・柴田の声が大きい。丹羽・木下は地道に成績を上げて、やっと会議に参加できるレベル……といったところか。

織田家臣団の二大派閥である「古渡・末盛譜代」と「那古野譜代」。秀吉は、部将の序列ではなく、派閥に目配せしたから、その領袖である柴田勝家と丹羽長秀から一字ずつ取って、羽柴を名乗ったのだろう。

【図表】織田家臣団の出身地
筆者作成の図を基に編集部で生成AIを使用し作成。城などのイラストはイメージです