とりあえず「ごめんなさい」の怖さ
悪いことをしたら、謝る。私はあまりに単純に考えていた。当然、子どもの行為には動機があり、結果がある。なぜ、おもちゃを投げて、その結果、何が起きたか。Kも因果関係が理解できなければ、心からは謝れないだろう。
「本当に怖いのは……」と秋田先生は前置きした。
「とりあえず『ごめんなさい』と言えば、許してもらえると子どもが思ってしまうような躾です。なかには、口では『ごめんなさい』と言ったとしても、内心ではまったく悪いとは思っていない子もいるかもしれません」
秋田先生は小学校の「朝の会」「帰りの会」の研究をした経験がある。
帰りの会で1日を振り返るなかで「Bくんがこんな悪いことをしました」という告げ口があったらしい。Bくんは報告の途中にもかかわらず「ごめんなさい」「ごめんなさい」と繰り返した。なぜ、悪いことをしたのか、Bくんの行為で誰がどう困ったのか、うやむやのまま「帰りの会」は終わってしまった。クラスメイトも何度も頭を下げるBくんに対して、罪悪感を覚えたからだという。
一種の処世術なのだろう。だが、それでは過ちを自覚できずに、再び同じことが繰り返されるかもしれない。
中身の伴わない謝罪会見が続くワケ
それは子どもだけではないはずだ。処世術としての謝罪でミスや失敗をやり過ごした経験があるビジネスパーソンもいるはずだ。場合によっては、頑なに非を認めない大人よりも質が悪いかもしれない。
私が想起したのは、近年の不祥事の謝罪会見だ。テレビカメラや記者の前で、深々と頭を下げ、「申し訳ございませんでした」と繰り返す。謝罪の形は取っている。しかし形だけだ。私たちは、内心とは違う白々しい言葉にウソを感じ取って苛立つのだ。
そんな感想に秋田先生は相槌を打つ。
「そう感じている人は真っ当ですよね。本来は『すまない』『申し訳がない』という気持ちがあってお詫びするはずです。ただ謝罪する本人も組織を守るために立場上、謝らざるをえないとしたら、本心では自分が悪いとは思っていないのかもしれません。それが、見ている人に伝わってしまうのでしょうね」
はたと気づいた。
本来、謝罪とは他者の痛みに対する想像のあらわれだ。しかしなかには、他者や社会への服従としての謝罪会見に溜飲を下げる人たちもいるのかもしれない。それを謝る側もわかっていて、中身の伴わない謝罪会見が続くのではないか。謝るという行為が歪んでいるのではないかと。



