義弟と盟友「2人の死者」の木霊

その死者とは、三笠宮家の寛仁親王と、銃弾によって殺された安倍晋三氏である。寛仁親王は、麻生氏の妹の夫君になるわけで、義弟になる。

安倍氏の場合は、民主党から政権を奪還した後、2012年12月から第2次安倍政権をスタートさせるが、麻生氏は、安倍氏が退陣するまでの約7年8カ月にわたって副総理兼財務大臣として、その政権を支えた。

麻生氏はいったん首相に就任しているわけで、それが政権の「ナンバー2」として首相を支えるのは異例の事態である。それは、麻生氏と安倍氏の絆がいかに強いものであったかを示しており、2人は間違いなく「盟友」だった。

麻生氏が、皇室典範の改正に前のめりになっているのも、この義弟と盟友という2人の死者の声を聞き続けているからではないだろうか。

寛仁親王は、若い頃には自由に活動がしたいと皇族から離れる意向を示したこともあった。ただし、〈秋篠宮家とも三笠宮家とも全然ちがう…「愛子天皇」待望論の背景に"家族関係のお手本"求める国民感情〉でも述べたように、父である三笠宮崇仁たかひと親王がリベラルな立場だったことに反発し、あくまで伝統を守ろうと、女系天皇に反対し、旧宮家の皇籍復帰を主張し、さらには側室制度の復活まで提言していた。

1986年5月11日、両国国技館で相撲を観覧するチャールズ英国皇太子同妃両殿下、寬仁親王同妃両殿下
1986年5月11日、両国国技館で相撲を観覧するチャールズ英国皇太子同妃両殿下、寬仁親王同妃両殿下(写真=外務省大臣官房儀典官室/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

皇室問題に積極的な皇族と政治家

寛仁親王に『トモさんのえげれす留学』(文藝春秋)という著書があるように、イギリスのオックスフォード大学に留学の経験があった。麻生氏も、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学しており、イギリス留学という共通の体験がその関係を強化することに結びついた。『トモさんのえげれす留学』には、麻生氏も登場する。しかも、学習院は2人にとって共通の母校である。

寛仁親王は「ヒゲの殿下」として国民に親しまれたものの、2012年に66歳で亡くなっている。1946年の生まれだから、麻生氏よりもかなり若い。今も存命なら、皇室典範の改正について意見を述べていた可能性がある。

もちろんそれは、女系天皇に結びつく可能性のある女性宮家創設に「反対」するものとなったであろう。麻生氏は、そうした義弟の意向をくみとっており、女性宮家の創設よりも、寛仁親王の主張に近い旧宮家の養子案を優先しようとしているのである。

寛仁親王は皇族という立場にあった以上、いくら発言がその枠から外れているように見えても、おのずと限界があった。

それに対して、麻生氏の盟友であった安倍氏の場合は政治家であり、皇室の問題に対する発言もより積極的であった。

その安倍氏が、首相在任中に掲げたのが、「戦後レジームからの脱却」というスローガンであった。これが今、大きな意味を持っている。