回復した彼は「結婚しよう」
翌日、玲子はいつも通り売店を開け、昼飯を食べ、夕方売店を閉めて病院に行った。渋谷は起きていて恥ずかしそうに目の下まで布団を引っ張った。「どう、苦しかった?」と聞く玲子に首を横に振った渋谷は突然「結婚しよう」と言った。「俺、子供嫌いなんだ」とも言った。「でも、前の男は、子供がどうしてもほしいといって私と別れた」「フロクより本誌が大事。子供か君かといったら、俺は子供を捨てて君をとる」。玲子は泣いた。
二人の新居は家主に内緒の間借りだった。飲んだくれてあまり家に帰らない玲子の独身の叔父の家に黙って住んだのだ。たまに叔父は帰ってきたが、3年間ついに隣りの部屋の新婚夫婦に気が付かなかった。
3回妊娠するも、出産に踏み切れず
玲子は妊娠した。初めての妊娠が夫の子どもだった。医者に、叔母と死んだ弟が知的障害だが、自分の子どもは大丈夫かと聞いたら、痛ましげに首を振った(編集部註:医学的根拠がある発言かは不明)。玲子は中絶手術をした。それが3回あって、とうとう卵管結紮手術を受けた。
1957(昭和32)年、玲子は「タム・タム芸術集団」の同人となる。これは大阪府豊中市に住む北田玲一郎らが1955(昭和30)年に結成した前衛芸術グループで、映像、文学、美術など活動は多岐にわたっていた。玲子はここに詩を寄稿し続けた。
1965(昭和40)年、『Tam-tam:文学・映画・美術』改め『総合芸術』の「現代作家裁判」企画で、編集長に悪口がうまいからという理由で石原慎太郎論を依頼された。「太陽詩人からクラブ支配人へ ―被告/石原慎太郎氏へ―」と題し、「椎名麟三のオッサンのように、一度美男美女ぬき、銭なしの小説かいてほしいわ」などの玲子節炸裂の評論は、翌年新年の朝日新聞「標的」欄で「笑って、笑って、笑い抜いた。新年、初笑い」と書かれた。これを読んだ編集者が、玲子が『総合芸術』に連載していた自伝的小説「わが闘争」を書籍として出すよう促し、1967(昭和42)年12月に出版、たちまち16万部のベストセラーになった。
自伝的小説がベストセラーに
『わが闘争』の冒頭部分はマスコミに何度も引用された。
スラムと悪遺伝の中、七人の兄弟姉妹、年頃になって、見合いの話一つなく、馬鹿にされつづけた堤家にとって、栄光を浴びた私は、まぎれもなく神である。復讐の刃の柄をも通れと宿命の首級をあげた私を肩に、
淫売や、博打うちや、そしてまた、公金拐帯の情婦や、放火、尊属殺人、びっこの少女が、
今や、海を渡って太陽の街にでてゆくのである。