父はチカの結婚後、50歳で死去
年齢差とか性格の違いは夫婦の努力で埋められる。と、楽観的に考えることにした。彼女は切り替えが早く、いつまでもクヨクヨしない。自分で決めたからには躊躇せずに突き進む、持ち前の積極果敢なポジティヴ思考が発動する。
チカが嫁いてからまもない明治9年(1876)5月27日、弾右衛門が力尽きるようにして亡くなる。享年50。亡骸は黒羽城下の長松院に葬られた。
なぜチカの産んだ長男が「六郎」に?
体調が悪いのを押して縁談話を取りまとめるために奔走した。それが死期を早めたのではないか、そんなふうにも考えてしまう。父の恩義に報いるためにも、夫に添い遂げ幸せな家庭を築いてゆかねばならないと心に誓った。けど、これは彼女の努力だけで成せるものではない……福之進とは、夫婦や家庭についての考え方が違い過ぎた。歳の差だけではない、そこには絶対に越えられない壁がある。
結婚から1年ほど過ぎた明治10年(1877)にチカは男の子を産んだ。この頃はまだ、夫婦の間はそれなりに円満だったようである。しかし、夫が息子に「六郎」と名付けたことから、夫への不信感が高まる。はじめて産まれた子どもになぜ“六”の字をつけるのか?
福之進には妾がいた。結婚前にチカもその噂を耳にしており、それも彼女が結婚を躊躇した理由だった。妾との関係を清算することを結婚の条件として申し入れ、そのときには福之進も了承したのだが。
しかし、妾との関係はまだつづいているようだった。狭い町だけに噂はすぐにチカの耳にも届き、疑心暗鬼になっていた。長男の名前に関する疑念も重なって、とうとう堪えきれなくなり夫を問い詰める。
福之進はすぐに白状した。その話を聞いて驚いたのが……妾の数はひとりではなかったということ。夫には数人の妾がおり、大勢の子どもを産ませていた。男子だけでも5人、だから6人目となるチカの子には六郎と名付けたのだった。そんな名前をつけるところから見ても、夫には妾の存在をいつまでも隠しつづける気がなかったようである。結婚のときの口約束など後でどうにでもなる。そう思っていたようだ。
大阪芸術大学卒業。近・現代史を中心に歴史エッセイやルポルタージュを手がける。著書に『ウソみたいだけど本当にあった歴史雑学』(彩図社)、『牧野富太郎~雑草という草はない~日本植物学の父』(角川文庫)などがある。
