※本稿は、青山誠『大関 和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』(角川文庫)の一部を再編集したものです。
チカは黒羽藩でも評判の美人
(元黒羽藩家老)大関弾右衛門の生真面目で空気が読めない性格は、娘(次女)のチカ(和)にも受け継がれる。この時代の男たちが妻に求める理想とは真逆のタイプだった。
慎み深く穏やかで、言動が控えめで自己主張などしない。と、維新後の日本では、妻が夫に従順であることがより求められるようになっていた。天皇を頂点とする家族的な秩序構築をめざす明治政府は、戸主である夫の権限を強化して妻や子を支配できるように法制定を進めている。江戸時代よりもむしろ維新後のほうが男尊女卑の風潮が強くなった。それだけにチカのようなタイプは、嫁の貰い手がないはずなのだが、元・家老の娘という家柄にくわえて、彼女は黒羽でも評判になるほどの美人。性格少々難があっても縁談を持ちかけられることは多かった。
18歳のときに大地主との縁談が
チカが18歳になった明治9年(1876)に結婚が決まる。相手の渡辺福之進も元黒羽藩士。大関家とはほぼ同じ家格の上士で、弾右衛門が家老を退いた後に藩の要職に就いていた。広い田畑を所有する大地主でもある。大半の士族が没落して貧困にあえぐ維新後も、彼の羽振りの良い噂はよく耳にする。
この縁談にいちばん乗り気だったのが父の弾右衛門だった。家老を辞めた直後は家禄を返上して藩を去る決意を固めていたが、(15代藩主)増裕の寡婦(未亡人)である於待の方(待子)から慰留されて藩に居残り、家知事という“窓際族”の役職に追いやられている。
明治2年(1869)6月に版籍奉還がおこなわれ、黒羽藩には太政官ら永世禄1万5000石が与えられた。このときに家老職にあった者には50石が支給されることになったが、すでに家老を辞職した弾右衛門には何の沙汰もない。家督を継いだ長男の復彦に「一人口大関復彦」と書かれた紙が一枚渡されただけだった。一人口とは武士に支給される俸給のことだが、生活の足しにもならない足軽以下の支給額である。
その措置からは屈辱を与えようという底意地の悪い意図も汲み取れて、チカは悔し涙を流しながら怒りに震えたという。
しかし、弾右衛門は一笑に付しただけで気にしていない。日頃の重臣たちの態度から、この非情な措置を予測していたのだろう。
元白河藩の県職員に転身した父
また、弾右衛門は廃藩置県が秒読み段階になったこの頃から、近隣諸藩で就職口を探していた。彼もまた黒羽藩を見限っていたようである。
「明治三年七月、弾右衛門は、白川県大属に採用された」
『下野勤皇列伝』(栃木県教育委員会)にこのような記載がある。黒羽からほど近い陸奥国南部の白河藩領は明治政府が直轄していたのだが、廃藩置県に先立つ明治2年8月にはそこに白河県(明治4年に二本松県と合併して福島県となる)が設置された。
弾右衛門はその県職員となり、鉱山開発を任されたというのだ。しばらくは単身赴任して働いたが、しかし、まもなくして病を患って仕事ができなくなる。
父は病を得て弱気になっていたか
弾右衛門は黒羽に帰郷して養生に努めるが、体調はいっこうに回復せず、家の蓄えも減りつづける一方。それですっかり気弱になっていた。それだけに、娘の将来が気になる。富裕な家に嫁がせて金で苦労せず生きられるようにしてやりたいと、縁談を進めていたようだった。
だが、チカからすればその親心はありがた迷惑。
「この人はちょっと……」
気が進まない相手だった。福之進は40歳くらいの中年男、親子ほどの年齢差がある。
渡辺家は黒羽城本丸の少し北側、チカの家からは大手通りの坂道を500~600メートルほど登ったところにある。同じ城下でさほど遠くない場所に住み、100家にも満たない小藩の家臣同士である。お互いの家のことはそれなりに知っていただろう。が、それでもこれだけ年齢差があると相手の男性とは接点がなく、話をしたこともない。
相手は20歳上、戊辰戦争では活躍
福之進は戊辰戦争で黒羽藩二番隊隊長として従軍した。川に飛び込んで敵陣に潜入し、舟を奪う活躍をしたという。なかなかの猛者、隊長を任されるくらいだからそれなりに有能で人望もあった。軍人に向いた性格だったようである。維新後は陸軍軍人となり、故郷を離れて東京鎮台や熊本鎮台に赴任した。長い軍隊暮らしで婚期を逃したのだろうか。
現代に比べて歳の差婚は多かった当時だが、20歳以上離れているのは珍しい。それでチカも腰が引けていたようなのだが。相手は維新の世を上手く乗り切って、黒羽でも有数の資産を築いている。士族には珍しい成功者で、人物の評判も悪くない。「玉の輿」と羨む声も多かった。また、チカもそろそろ行き遅れを心配される年齢になっている。当時の女盛りは15~18歳といわれており、「娘十八、番茶も出花」なんて言葉もあった。弾右衛門はそれも気にして焦っているようだった。
当時の女性としてはタイムリミット
ふだんのチカであれば、気に入らない縁談などきっぱり断っていただろう。が、このときはそれが言えなかった。病をかかえる父はめっきり老け込んで、元気がなく暗い表情をしていることが多い。しかし、この縁談話が持ち上がってからは「良縁だ」と大喜びして、最近はよく笑うようになっている。父の笑顔を曇らせることはしたくない。結婚は親孝行のためと割り切ることにした。
相手の顔や性格もよく知らないまま、親が結婚を決めてしまう。当時は珍しくないことだ。結婚は親孝行のため、家のためにするもの。チカだけではない、大半の娘たちがそう考え割り切っている。
父はチカの結婚後、50歳で死去
年齢差とか性格の違いは夫婦の努力で埋められる。と、楽観的に考えることにした。彼女は切り替えが早く、いつまでもクヨクヨしない。自分で決めたからには躊躇せずに突き進む、持ち前の積極果敢なポジティヴ思考が発動する。
チカが嫁いてからまもない明治9年(1876)5月27日、弾右衛門が力尽きるようにして亡くなる。享年50。亡骸は黒羽城下の長松院に葬られた。
なぜチカの産んだ長男が「六郎」に?
体調が悪いのを押して縁談話を取りまとめるために奔走した。それが死期を早めたのではないか、そんなふうにも考えてしまう。父の恩義に報いるためにも、夫に添い遂げ幸せな家庭を築いてゆかねばならないと心に誓った。けど、これは彼女の努力だけで成せるものではない……福之進とは、夫婦や家庭についての考え方が違い過ぎた。歳の差だけではない、そこには絶対に越えられない壁がある。
結婚から1年ほど過ぎた明治10年(1877)にチカは男の子を産んだ。この頃はまだ、夫婦の間はそれなりに円満だったようである。しかし、夫が息子に「六郎」と名付けたことから、夫への不信感が高まる。はじめて産まれた子どもになぜ“六”の字をつけるのか?
福之進には妾がいた。結婚前にチカもその噂を耳にしており、それも彼女が結婚を躊躇した理由だった。妾との関係を清算することを結婚の条件として申し入れ、そのときには福之進も了承したのだが。
しかし、妾との関係はまだつづいているようだった。狭い町だけに噂はすぐにチカの耳にも届き、疑心暗鬼になっていた。長男の名前に関する疑念も重なって、とうとう堪えきれなくなり夫を問い詰める。
福之進はすぐに白状した。その話を聞いて驚いたのが……妾の数はひとりではなかったということ。夫には数人の妾がおり、大勢の子どもを産ませていた。男子だけでも5人、だから6人目となるチカの子には六郎と名付けたのだった。そんな名前をつけるところから見ても、夫には妾の存在をいつまでも隠しつづける気がなかったようである。結婚のときの口約束など後でどうにでもなる。そう思っていたようだ。
