光秀の死後、妻子はどうなったか
しかし、光秀は頼りにしていた与力大名の細川藤孝、筒井順慶らを仲間に引き入れることに失敗。一方、秀吉は毛利家と講和し、中国攻めから一転して帰京(中国の大返し)。丹羽長秀、織田信孝らの軍と合流。明智軍と対峙した。同年6月13日の山崎の合戦で光秀は秀吉にあっけなく敗れ、京都小栗栖を敗走中に土民に襲われ落命した。
一方、『鈴木叢書本明智系図』(『群書系図部集』所収)では、光秀の母を武田義統の妹とし、光秀の弟として、信教(号・筒井大和守)。後改順慶、康秀(左馬助)を掲げている。筒井順慶と明智左馬助秀満が光秀の弟だというのだが、到底、信じられない。そこでは六男七女説を掲げているが、これも信用できない。
光秀の娘・ガラシャが繋いだ血筋
明智光秀には一国を知行するような大身の与力、すなわち、細川藤孝(丹後)、筒井順慶(大和)がいた。光秀は娘の玉(細川ガラシャ)を細川藤孝の嫡男・細川忠興に嫁がせ、男子を筒井順慶の養子にする約束があったという(『織田信長の家臣団』)。
光秀の子女には異説が多いが、確実なところでは二男三女があり、女子は以下の通り。
・長女 荒木村安(荒木村重の嫡男、別名・村次)の妻、のち明智弥平次秀満(旧姓三宅)の妻
・次女 津田信澄(信長の甥)の妻
・三女 細川忠興(細川藤孝の嫡男)の妻
一説によれば、これらの婚姻は信長の指示であったという。荒木村重は摂津有岡(大阪府伊丹市)、津田信澄は近江高島(滋賀県高島市)、細川藤孝は山城勝龍寺(京都府長岡京市)から丹後宮津(京都府宮津市)に城を構え、「近畿管領」と呼ばれた光秀の立場を大いに補強する婚姻である。信長の指示でなくとも、許可がなければ実現できなかったであろう。
一方、男子は、長男・明智十五郎光慶、次男(自然丸か)がいたらしい。