大河のキーパーソン、明智光秀
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で明智光秀(要潤)が登場した。
しかし、その前半生は不明である。まず生年がハッキリしない。子年生まれらしく、永正13(1516)年、享禄元(1528)年説が有力だが、近年では天文9(1540)年以降という説も出てきている。ちなみに、織田信長は天文3(1534)年生まれである。
出自も不確かで、2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では美濃守護・土岐氏の支流の名門として描かれていたが、確証はない。天正3(1575)年に織田信長(「豊臣兄弟!」では小栗旬)から惟任への改姓を命じられ、光秀は惟任日向守を名乗っているが、同時期に改姓された者の多くは、丹羽長秀(同・池田鉄洋)をはじめ、身分が低い家系と想定される(たとえば、佐久間のように尾張国内の有力者の場合、改姓させるメリットがない)。そこから考えると土岐氏流の名門というのは信じがたい。
光秀は濃姫の従兄弟だった?
光秀の叔母・小見の方が斎藤道三(麿赤兒)に嫁ぎ、その娘・濃姫と光秀が従兄弟という説があるが、これは『美濃国諸旧記』にしか見られない記述で、何本も伝わっている明智系図にはそうした記述がないため、どこまで信じてよいか疑問符が付く。
さらに、信長に会うまで、光秀が何をしていたのかも不明である。信長に仕える前は越前一乗谷に寓居する足利義昭(のちの室町幕府15代将軍)に仕えていたが、義昭が一乗谷に移ってくる前からの家臣なのか、それとも越前朝倉家の家臣だったのかも判然としない。
ルイス・フロイスの『日本史』に「兵部太輔と称する人(細川藤孝:亀田佳明)に奉仕していた」と記され、『多聞院日記』でも「細川の兵部大夫(藤孝)カ(が)中間にてありし」との記述がある。両書とも信憑性の高い書なので、光秀は元々細川藤孝の家臣で、その後に義昭の家臣になったと解釈すべきであろう(ただし、なぜか世間は光秀が細川家臣だったことを認めようとしない)。
比叡山焼き討ちの後、領地を得る
永禄11(1568)年9月、信長が義昭を奉じて上洛すると、光秀は信長の指揮下で京都の政務にあたり、あたかも信長の家臣のようになった。しかし、永禄13(1570)年1月に信長が義昭に対して意見書を突きつけた際、その宛先は朝山日乗と光秀だったから、信長は自らの家臣とは認識していなかったはずである。
元亀元(1570)年9月に志賀城の森可成(水橋研二)が討ち死にすると、同年末に光秀が志賀城に入り、翌元亀2年9月の比叡山焼き討ちの後、信長は光秀に近江国志賀郡と山門領を与え、坂本を居城とすることを許した。
天正3(1575)年に丹波攻略を指示され、光秀が丹波に赴くと、国人領主はおおむね従ったが、強きになびく面従腹背だったようで、黒井城(兵庫県丹波市)・赤井悪右衛門直正の攻略中に、それまで味方していた丹波八上城(兵庫県篠山市)の波多野秀治が突然離反。光秀は敗戦を余儀なくされる。翌天正4年1月に光秀はいったん近江坂本に帰陣。
同天正4年4月には遊軍として本願寺攻め、天正5(1577)年2月の紀伊根来攻め、10月には信貴山城攻めに駆り出され、丹波攻略に本腰を入れることもままならなかった。
天正6(1578)年3月、光秀は細川藤孝とともに丹波に攻め入ったが、またも遊軍として4月に播磨の秀吉支援、10月には荒木村重の謀反の対応に駆り出され、翌天正7年2月になって丹波攻略に再び着手。6月に八上城を開城させ、7月に丹後を攻め、守護・一色義有を降し、八月に黒井城を陥落した。かくして丹波・丹後を平定。天正8(1580)年に丹波は明智光秀に、丹後は細川藤孝に与えられた。
本能寺の変を起こすまでの経緯
天正8年8月、畿内の諸将を与力にしていた佐久間信盛(菅原大吉)が高野山へ追放されると、その与力の多くが光秀に附けられた。高柳光寿氏は「大和の筒井順慶をはじめとして、摂津の池田恒興・中川清秀・高山(右近)重友らはこのときに光秀の組下に入ったらしい。ここに至って光秀は師団長格になり、近畿軍の司令官、近畿の管領になったのである」と評している(『人物叢書 明智光秀』)。
天正10(1582)年、信長は武田勝頼を滅ぼし、徳川家康(松下洸平)を安土城に招いた。光秀は当初、その接待役を仰せつけられていたが、羽柴秀吉(池松壮亮)の中国・毛利攻めの援軍を命じられた。
光秀は亀山城を出たが、同天正10年6月2日に入京して織田信長が宿営する本能寺を襲い、次いで妙覚寺の信忠を襲撃。信長父子の殺害に成功した。世にいう本能寺の変である。
光秀の死後、妻子はどうなったか
しかし、光秀は頼りにしていた与力大名の細川藤孝、筒井順慶らを仲間に引き入れることに失敗。一方、秀吉は毛利家と講和し、中国攻めから一転して帰京(中国の大返し)。丹羽長秀、織田信孝らの軍と合流。明智軍と対峙した。同年6月13日の山崎の合戦で光秀は秀吉にあっけなく敗れ、京都小栗栖を敗走中に土民に襲われ落命した。
一方、『鈴木叢書本明智系図』(『群書系図部集』所収)では、光秀の母を武田義統の妹とし、光秀の弟として、信教(号・筒井大和守)。後改順慶、康秀(左馬助)を掲げている。筒井順慶と明智左馬助秀満が光秀の弟だというのだが、到底、信じられない。そこでは六男七女説を掲げているが、これも信用できない。
光秀の娘・ガラシャが繋いだ血筋
明智光秀には一国を知行するような大身の与力、すなわち、細川藤孝(丹後)、筒井順慶(大和)がいた。光秀は娘の玉(細川ガラシャ)を細川藤孝の嫡男・細川忠興に嫁がせ、男子を筒井順慶の養子にする約束があったという(『織田信長の家臣団』)。
光秀の子女には異説が多いが、確実なところでは二男三女があり、女子は以下の通り。
・長女 荒木村安(荒木村重の嫡男、別名・村次)の妻、のち明智弥平次秀満(旧姓三宅)の妻
・次女 津田信澄(信長の甥)の妻
・三女 細川忠興(細川藤孝の嫡男)の妻
一説によれば、これらの婚姻は信長の指示であったという。荒木村重は摂津有岡(大阪府伊丹市)、津田信澄は近江高島(滋賀県高島市)、細川藤孝は山城勝龍寺(京都府長岡京市)から丹後宮津(京都府宮津市)に城を構え、「近畿管領」と呼ばれた光秀の立場を大いに補強する婚姻である。信長の指示でなくとも、許可がなければ実現できなかったであろう。
一方、男子は、長男・明智十五郎光慶、次男(自然丸か)がいたらしい。
トンデモ的な「光秀の子孫説」
山崎の合戦で光秀が敗死すると、明智一族は坂本城に籠城するが、秀吉側に殲滅されてしまう。
光秀の遺児が逃れ、その子孫が『本能寺の変四二七年目の真実』の著者であるとか、実は光秀の子が土岐家を継いで、その子孫がクリス・ペプラーだとか、ご落胤伝説は幾つかあるが、それはあくまでも「伝説」でしかない。ちょうど、織田信長が平清盛の子孫であるとか、徳川家康が清和源氏新田家の末裔であるとかと同じレベルである)。
肥後の家老となったガラシャの子孫
光秀の血脈が確かに残っているのは、細川家に嫁いだ三女・細川ガラシャ(実名・たま)の末裔だろう(細川ガラシャは三男二女をもうけたとされるが、嫡男の細川忠利と稲葉一通に嫁いだその妹は、ガラシャの子でない可能性がある)。
忠興・ガラシャ夫妻の長男である細川忠隆は、関ヶ原の合戦の際に廃嫡されたが、肥後熊本藩家老としてその子孫は脈々と続いており、政治評論家として有名な細川隆元、その甥の細川隆一郎、その娘の細川珠生がいる。
また、忠隆の娘から女系を通じて公家の西園寺家、正親町家と血筋を繋ぎ、正親町雅子は仁孝天皇の典侍(側室)として孝明天皇を産んだ。これにより、ガラシャの血筋は現在の皇室にも繋がっているのである。
ちなみに、第79代総理大臣・細川護煕は細川家の嫡流であるが、血脈的には忠興の庶子の子孫なので、ガラシャの血筋ではない。