嫡男の家政は阿波徳島の大名に

正勝の嫡男・蜂須賀家政は、天正3(1575)年から秀吉に仕え、長篠の合戦、伯耆攻略、山崎の合戦、賤ヶ岳の合戦などで武功をあげた。天正13年に父・正勝とともに四国征伐の主力を成し、合戦後に阿波徳島17万3000石を賜った。秀吉は正勝に阿波を与えようとしたが、自身は側近く仕えることを望み、家政に譲ったともいう。

徳島市・徳島城跡にある徳島藩初代藩主蜂須賀家政の銅像
徳島市・徳島城跡にある徳島藩初代藩主蜂須賀家政の銅像(写真=Twilight2640/CC-BY-3.0/Wikipedia

家政の嫡男・蜂須賀至鎮は慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦で、若干15歳にして細川忠興・加藤清正らと結び、徳川方についた。五奉行の増田長盛ましたながもりから「蜂須賀家は秀吉恩顧の大名なのに、なぜ家康につくのか」と書状で叱責されると、「豊臣家にそむくわけではない。なんじらと組むのが嫌なだけだ」と返答したという。父・家政は大坂城にとどまり、行きがかり上、毛利・石田方につく形になってしまったが、至鎮が家康方についたため、致仕するのみで赦された。至鎮は大坂夏の陣でも武功を上げ、元和元(1615)年に淡路を加えられ、25万7000石に加増された。

淡路島が兵庫県に入った理由

稲田植元は一説に前野長康の義弟なのだが、蜂須賀正勝とも兄弟の契りを結んでいたといわれ、蜂須賀家の筆頭家老として淡路を領した。明治維新後、稲田家は独立運動を起こして、蜂須賀家徳島藩と対立。本藩の家臣が淡路洲本の稲田家を襲撃する事件が起きた(庚午こうご事変)。

そのため、淡路島は徳島県から分離され、距離としてはより遠い兵庫県に編入された。一方、稲田の家臣たちは明治政府から北海道移住を命ぜられた。その北海道移住の苛烈さは、吉永小百合主演映画『北の零年』として2005年に公開された。

徳島城「鷲の門」、江戸時代に蜂須賀氏が徳島城を建築した際に正門として建てたものを復元
徳島城「鷲の門」、江戸時代に蜂須賀氏が徳島城を建築した際に正門として建てたものを復元(写真=663highland/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons