前例なき「天皇の母」となるプレッシャー
幸い、悠仁親王の場合には、その道にうまく乗った。前回も述べたように、トンボという興味の対象を見いだし、好んで生物学の道を究めようとしているからである。
それは、一歩間違えれば危険な道であったのだが、紀子妃には、将来の天皇の母としての強い覚悟があった。しかし、紀子妃が完璧を求めるあまり、余裕が失われた面があった。またそれは、周囲の職員などに対して厳しすぎるという評価にも結びついている。
その点で紀子妃を責めるのも酷なことである。何しろ、天皇の母となる女性に、それだけのプレッシャーがかかるようになったのは、ごく最近のことだからである。
明治になってから、将来天皇になる男子が生まれた場合、親が育てるのではなく、他の華族の家に出される慣習があった。華族は明治になって生まれた制度で、江戸時代の公家や大名、あるいは明治維新で功績があった家がそれに選ばれた。
大正天皇の場合、明治天皇の祖父であった中山忠能の家に預けられ、そこで育った。昭和天皇も、生後70日で元海軍中将の川村純義伯爵の邸宅に預けられた。弟たちも同様である。
「ナルちゃん憲法」が変えたもの
現在の上皇は昭和8(1933)年の生まれだが、やはり3歳のときに昭和天皇夫妻のもとを離れ、赤坂の東宮仮御所に移り、そこで育てられた。そこには女官たちが同行し、幼い皇子を厳しくしつけた。また、「教育御用掛」となった学者や軍人、外交官が勉強を教えた。
したがって、血のつながった両親であっても、親しく交わることはできず、面会するときも多分に儀礼的なものに終わった。親の愛情を受けて育ったわけではない。むしろ、そうしたことは不要と考えられたのである。
それを大きく変えたのが、上皇と結婚した美智子上皇后であった。生まれた子どもを親元から離すのではなく、自分の手元で育てるという形をとったのだ。それは、皇室の伝統からすれば革命的なことだったが、戦後の時代を考えれば、当然の変化だった。
美智子上皇后が今上天皇を育てる際に定めた「ナルちゃん憲法」はよく知られている。「ナルちゃん」とは「徳仁」から来ている。それは、公務の際に、世話係に託されたもので、「1日1回はしっかり抱きしめて」「好き嫌いを言わせない」「一つのおもちゃでじっくり遊ばせる」といったものだった。
これが雅子皇后にも紀子妃にも受け継がれ、皇室に生まれた子どもたちは、一般国民の家庭がそうであるように、親元で育てられることになった。皇室に大きな革命がもたらされたとも言えよう。