「懐妊」が与えるプレッシャー
今回は、雅子皇后と秋篠宮家の紀子妃の子育ての違いについて考えてみたい。
子どもを育てるのは大変なことである。まして、その子どもが将来天皇になるとしたら、畏れ多いという思いがつのるはずだ。
これを経験したのが紀子妃である。彼女が秋篠宮と結婚したのは1990年6月のことになるが、その時点では、自分が天皇となる子を生むとは考えてもいなかったであろう。
結婚した翌年には長女として眞子内親王が生まれた。その育児が続く中、1993年6月9日には当時皇太子だった今上天皇が雅子皇后と結婚している。世間の関心はその「ご成婚」に集中した。
ただ、皇太子夫妻にはなかなか子どもが生まれなかった。一方、紀子妃のほうは、ご成婚の4年後に次女の佳子内親王を出産している。
そうした状況が、雅子皇后にとって大きなプレッシャーになったことが考えられる。世間は「お世継ぎ」の誕生を強く期待したからである。いくら雅子皇后が結婚するまで外交官として華麗な人生を歩んできたとしても、皇太子妃となれば状況は変わる。1999年には流産ということもあった。
「女性・女系天皇」を容認する報告書の作成
こうした流れを紀子妃がどのように見ていたかはわからない。ただ、義姉にあたる雅子皇后はいったんは懐妊しているわけで、いずれ子どもが生まれるであろうと考えていたかもしれない。実際、2001年には、結婚8年目にして愛子内親王が生まれている。
しかし、愛子内親王は女の子であり、現在の規定では天皇の子どもであっても即位はできない。不思議なことに、愛子内親王の誕生まで皇室では30年以上男子が生まれていなかった。
果たして将来の皇位継承はどうするのか。愛子内親王が生まれてから8日後に雅子皇后は38歳になった。紀子妃はその時点で35歳である。
2004年になると、小泉純一郎内閣のもとで「皇室典範に関する有識者会議」が設置された。翌年には、女性天皇、さらには女系天皇を容認する報告書が作成されている。2006年の通常国会では、皇室典範が改正されるはずだったのである。
ところが、そこに突発的な事態が生まれる。
時代を変えた世紀の「出産」
そこで紀子妃が懐妊したという報道がなされた。それによって皇室典範改正の動きは止まった。男子が生まれるかどうかわからないにもかかわらず、である。男子であることは、悠仁親王が生まれるまで明らかにはされなかった。
事前に、部分前置胎盤と診断され、帝王切開による分娩になることが発表されていた。それでも無事出産にこぎ着け、父親である秋篠宮以来41年ぶりに皇室に男子が誕生した。これで、皇室典範の改正は完全に見送られた。
自らの出産が時代を動かし、変えていく。紀子妃がその間、いったいどういう心境だったのか、一般の国民には想像もできないが、それは紀子妃自身をも大きく変えていくのである。
前にも書いたように、秋篠宮家の学習院離れが進むのは、悠仁親王が誕生してからである。眞子・佳子両内親王は学習院ではなく、ICU(国際基督教大学)で学ぶようになり、悠仁親王になると、一度も学習院には籍を置いたことがない。
「教育ママ」に徹した紀子さま
大学のほうは本人たちの意思が働いているであろうが、悠仁親王が幼稚園の段階から学習院を選ばなかったのは、本人の意思ではなく、両親が考えてのことである。紀子妃が、当時自分が所属していたお茶の水女子大学の幼稚園に悠仁親王を通わせるようになったことからすると、そこには紀子妃の意向のほうが強く働いていたはずである。
悠仁親王は天皇家に生まれたわけではなく、天皇から帝王学を直接授かることは難しい。そこで紀子妃が選んだのは、皇室の伝統には拘泥せず、悠仁親王には自分の求めるところをとことん追究し、そこで得られる知見を通して国民から認められるリーダーへの道を歩ませるという方向だった。
そこには紀子妃が学者の娘であったことが大きく影響していたことだろう。逆に言えば、彼女には、そうした道しか正しいとは思えなかったのだ。母親として子どもに最善の教育環境を与える。紀子妃は、「教育ママ」に徹する道を選んだとも言える。それは、自らの重い責任を認識した結果である。
これは、下手をすれば「毒母」になっていく道である。アメリカに住む私の知人の女性は、娘を超エリート校であるMIT(マサチューセッツ工科大学)に入れたが、自分を毒母と認めていた。娘に無理やり勉強させ、相当な反発を受けたらしい。紀子妃も、あやうく毒母になっていたかもしれないのだ。
前例なき「天皇の母」となるプレッシャー
幸い、悠仁親王の場合には、その道にうまく乗った。前回も述べたように、トンボという興味の対象を見いだし、好んで生物学の道を究めようとしているからである。
それは、一歩間違えれば危険な道であったのだが、紀子妃には、将来の天皇の母としての強い覚悟があった。しかし、紀子妃が完璧を求めるあまり、余裕が失われた面があった。またそれは、周囲の職員などに対して厳しすぎるという評価にも結びついている。
その点で紀子妃を責めるのも酷なことである。何しろ、天皇の母となる女性に、それだけのプレッシャーがかかるようになったのは、ごく最近のことだからである。
明治になってから、将来天皇になる男子が生まれた場合、親が育てるのではなく、他の華族の家に出される慣習があった。華族は明治になって生まれた制度で、江戸時代の公家や大名、あるいは明治維新で功績があった家がそれに選ばれた。
大正天皇の場合、明治天皇の祖父であった中山忠能の家に預けられ、そこで育った。昭和天皇も、生後70日で元海軍中将の川村純義伯爵の邸宅に預けられた。弟たちも同様である。
「ナルちゃん憲法」が変えたもの
現在の上皇は昭和8(1933)年の生まれだが、やはり3歳のときに昭和天皇夫妻のもとを離れ、赤坂の東宮仮御所に移り、そこで育てられた。そこには女官たちが同行し、幼い皇子を厳しくしつけた。また、「教育御用掛」となった学者や軍人、外交官が勉強を教えた。
したがって、血のつながった両親であっても、親しく交わることはできず、面会するときも多分に儀礼的なものに終わった。親の愛情を受けて育ったわけではない。むしろ、そうしたことは不要と考えられたのである。
それを大きく変えたのが、上皇と結婚した美智子上皇后であった。生まれた子どもを親元から離すのではなく、自分の手元で育てるという形をとったのだ。それは、皇室の伝統からすれば革命的なことだったが、戦後の時代を考えれば、当然の変化だった。
美智子上皇后が今上天皇を育てる際に定めた「ナルちゃん憲法」はよく知られている。「ナルちゃん」とは「徳仁」から来ている。それは、公務の際に、世話係に託されたもので、「1日1回はしっかり抱きしめて」「好き嫌いを言わせない」「一つのおもちゃでじっくり遊ばせる」といったものだった。
これが雅子皇后にも紀子妃にも受け継がれ、皇室に生まれた子どもたちは、一般国民の家庭がそうであるように、親元で育てられることになった。皇室に大きな革命がもたらされたとも言えよう。
プレッシャーから解放された子育て
では、雅子皇后の子育てはいかなるものなのだろうか。それは紀子妃とどう違うのだろうか。
雅子皇后の場合、結婚後に世継ぎを生まなければならないという強いプレッシャーを受け続けた。のちにそれが適応障害に結びついた可能性があるが、ようやく授かったのは、男の子ではなく女の子だった。
それは、次こそは男の子というさらなるプレッシャーを生んだはずだ。しかも、国会では、愛子内親王を次の天皇にする方向での議論がはじまった。あるいは自分は、久しぶりに現れる女性天皇の母になるのかもしれない。同時に、そうした思いを抱いたはずだ。
ところが、悠仁親王が誕生したことで事態は根本から変わる。それによって、雅子皇后は世継ぎを絶対に生まなければならないというプレッシャーから解放された。しかも、娘を将来の天皇にする責務からも解放されたのだ。
そこには複雑な感情が渦巻いた可能性もある。本来なら、自分が男子の親王を生み、それを育てるべきだったかもしれないからである。そのあたりの気持ちは、外側からは想像が難しい。
娘を守り抜いた雅子さまの子育ての結実
ただ、それによって、愛子内親王をあくまで一人の女性として育てる道が開かれた。紀子妃のように、将来の天皇を育て上げなければならないという重大な使命感を持つ必要がなくなったのだ。
もしも雅子皇后が女の子ではなく男の子を産んでいたら、適応障害の現れ方も変わっていた可能性がある。良い方向にむかっていたかもしれないが、帝王学の必要を過剰に感じて悪化していたことも考えられる。
愛子内親王も、学習院初等科では不登校を経験し、雅子皇后が付き添って登校することもあった。私も娘の不登校に悩んだ経験があるが、そこまで徹底して子どもに寄り添うことはかなり難しい。雅子皇后は娘を守り抜いたのである。
その後、愛子内親王は不登校からも脱し、落ち着きのある包容力のある女性へと成長していった。それも、雅子皇后が娘を守ることに徹底できたからであろう。愛子内親王が天皇と2人で行動する機会が増えたことも、雅子皇后の精神的な負担を軽減する方向に作用している。
確かにその面はあるのだが、そこに重大な問題が生まれた。
子育ての成功が生んだ「愛子天皇」待望論
そうした形で愛子内親王が成長を遂げると、その内親王ならではの知的な優雅さが国民を引きつけるようになり、「愛子天皇」待望論が高まりを見せる結果となった。子育ての成功が思わぬ事態を生んでしまったのである。
現在の皇室の体制では、どうしても母親にプレッシャーがかかり、責任をすべて押しつけられる形になってしまう。
紀子妃が、ある意味悲壮な覚悟をしなければならないのも、それが関係する。親が直接育てない昔のやり方が今に通用するわけではないものの、何か策を講じる必要がある。そうでないと、悠仁親王は愛子内親王以上に国民の信頼を集めることができないままになってしまうのだ。
果たしてこのままでよいのだろうか。
親王や内親王の子育てや教育を、それぞれの母親任せにしておくのは問題であり、責任を無理に押しつける結果にもなっている。そこには第三者が関わることが必要なのだ。今の皇室のあり方に対する国民の不安の一つは、間違いなくそこに発しているのである。