大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で展開する織田信長の正念場、桶狭間の戦い。系図研究者の菊地浩之さんは「信長は格上の守護大名・今川義元を討ち取ったが、無謀な奇襲作戦ではなく、今川側の武将を引き入れた周到な作戦だったのではないか」という――。
名古屋まつりでの2026年NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」織田信長役の小栗旬(左)と豊臣秀長役・仲野太賀。2025年10月19日、名古屋市
撮影=川島英嗣
名古屋まつりでのNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」織田信長役の小栗旬(左)と豊臣秀長役・仲野太賀。2025年10月19日、名古屋市

「豊臣兄弟!」で描かれる桶狭間

大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)の第3話では桶狭間の合戦前夜が描かれる。

永禄3(1560)年5月19日、織田信長(小栗旬)軍は、尾張に進軍していた駿河の今川義元(大鶴義丹)を桶狭間おけはざま(場所は名古屋市緑区有松町桶狭間と愛知県豊明市栄町の二説がある)にて討ち取った。世にいう桶狭間の合戦である。

従来の説では、今川義元が4万5000(実際は2万5000といわれている)の兵を率いて上洛し、尾張を蹂躙じゅうりんしていこうとするのに対し、信長は2000の兵を率いて、風雨の中、休んでいた義元を奇襲攻撃で勝利したといわれていた。しかし、歴史研究者の藤本正行氏は『信長公記』を素直に読むと、信長軍は迂回による奇襲を行っておらず、正面からの攻撃で今川軍を破ったと唱えた(藤本正行『信長の戦国軍事学 戦術家・織田信長の実像』)。この説が一般にも流布し、今では定説となりつつある。

しかし、2000の信長軍が正面攻撃で2万5000の今川軍に圧勝するという筋書きに納得し得ない部分があり、作家・研究者が新説を唱えて現在に至っている。

なぜ『信長公記』はこう書いたか

織田信長の右筆・太田牛一ぎゅういちが記した『信長公記』では、桶狭間の合戦を以下の順序で記載している。

① 今川方に内応した鳴海城の山口左馬助教継さまのすけのりつぐ父子が駿河に呼ばれ、切腹させられた。
天沢てんたくという僧侶が関東に下向し、甲斐の武田信玄に信長の鷹狩りの様子を語った。
③ 鳴海城の抑えとして、信長がその周辺に砦を築いた。
④ 今川義元が尾張に出陣した。以下、桶狭間の合戦に続く。

ここで疑問となるのは、②僧・天沢が武田信玄に信長の鷹狩りの様子を報告したくだりが、なぜこんなところに入っているかということである。

仮にこの話が事実であり、時期的にこの間に挿入することが正しいとしても、前後の流れを中断するこの場所に敢えて挿入する必然性が全く感じられない。

そこで、全く別の観点から考えてみよう。つまり、この話は天沢という人物を借りて、桶狭間の合戦に至る背景を比喩的に語っているのではないか。

太田牛一が江戸時代に書いた『信長公記』(陽明文庫所蔵)
太田牛一が江戸時代に書いた『信長公記』(陽明文庫所蔵)(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons