「豊臣兄弟!」で描かれる桶狭間
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)の第3話では桶狭間の合戦前夜が描かれる。
永禄3(1560)年5月19日、織田信長(小栗旬)軍は、尾張に進軍していた駿河の今川義元(大鶴義丹)を桶狭間(場所は名古屋市緑区有松町桶狭間と愛知県豊明市栄町の二説がある)にて討ち取った。世にいう桶狭間の合戦である。
従来の説では、今川義元が4万5000(実際は2万5000といわれている)の兵を率いて上洛し、尾張を蹂躙していこうとするのに対し、信長は2000の兵を率いて、風雨の中、休んでいた義元を奇襲攻撃で勝利したといわれていた。しかし、歴史研究者の藤本正行氏は『信長公記』を素直に読むと、信長軍は迂回による奇襲を行っておらず、正面からの攻撃で今川軍を破ったと唱えた(藤本正行『信長の戦国軍事学 戦術家・織田信長の実像』)。この説が一般にも流布し、今では定説となりつつある。
しかし、2000の信長軍が正面攻撃で2万5000の今川軍に圧勝するという筋書きに納得し得ない部分があり、作家・研究者が新説を唱えて現在に至っている。
なぜ『信長公記』はこう書いたか
織田信長の右筆・太田牛一が記した『信長公記』では、桶狭間の合戦を以下の順序で記載している。
① 今川方に内応した鳴海城の山口左馬助教継父子が駿河に呼ばれ、切腹させられた。
② 天沢という僧侶が関東に下向し、甲斐の武田信玄に信長の鷹狩りの様子を語った。
③ 鳴海城の抑えとして、信長がその周辺に砦を築いた。
④ 今川義元が尾張に出陣した。以下、桶狭間の合戦に続く。
ここで疑問となるのは、②僧・天沢が武田信玄に信長の鷹狩りの様子を報告したくだりが、なぜこんなところに入っているかということである。
仮にこの話が事実であり、時期的にこの間に挿入することが正しいとしても、前後の流れを中断するこの場所に敢えて挿入する必然性が全く感じられない。
そこで、全く別の観点から考えてみよう。つまり、この話は天沢という人物を借りて、桶狭間の合戦に至る背景を比喩的に語っているのではないか。