ハーンの月給は1000万円超に
明治27年(1894)10月から2年近く、ハーンは神戸で暮らし、それに当たって万右衛門だけは松江に帰ったが、その後も金十郎とトミはハーン夫妻と同居した。
そして、明治29年(1896)9月からは東京暮らしがはじまった。ハーンの職場は本郷の東京帝国大学で、月給はなんと400円(いまの貨幣価値で千数百万円か)、5年後には450円になり、加えて印税も入った。
セツは、松江にいる実母のチエのもとには、ずっと仕送りを続けていた。チエはセツに宛てた手紙に、「いながきどの、申なされしにわとふ月から三百に月けふがなりしと申しなられして、ゆめかとばかりよろこび申し」と書いている。つまり、稲垣金十郎殿が申されたことには、今月から月給が300円(註・本当は400円)になったとのことで、夢のようだとよろこんでいる、というのだ。
しかも、セツの養祖父の万右衛門に、100石取りの家の養女が1200石取りの家の奥方になった、と伝えたという。いったん極貧に転落した実母や養祖父、養父母にとっては、セツが「高給取り」の妻になったことが、かなりうれしかったと見受けられる。
落ちぶれていた稲垣家も復活した
金十郎とトミは、東京でも変わらず同居した。長男の一雄が4歳になるころから、読み書きの学習がはじめられ、もちろん英語はハーンが教えたが、国語の担当は祖父の金十郎だった。婿に養われるだけでなく、金十郎もトミも家のなかで役割を果たしていた。
金十郎は時に、家の近くの空き地で、家族を前にして見事な弓の腕前を披露することもあったという。しかし、胃潰瘍に蝕まれて明治33年(1901)11月に死去した。享年59。しかし、トミはハーンの死後も健在だった。
ちなみに、この稲垣家は、ハーンとセツの次男である巌がトミの養子になり、無事に継承された。
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。