姑・トミの右頬に残った一生消えない傷

北堀の武家屋敷に引っ越してから5カ月も経たない明治24年(1891)11月、ハーン夫妻は熊本に引っ越した。ハーンが熊本の第五高等学校に転出したからである。そして、セツの家族、すなわち養父母の稲垣金十郎とトミ、養祖父の万右衛門(それぞれ「ばけばけ」の松野司之介、フミ、勘右衛門のモデル)も、少し遅れて熊本の家に同居することになった。

ハーンの月給は松江時代の100円から200円へと跳ね上がり、これはいまの700万円から800万円に相当する金額だと思われる。生活には余裕があったはずで、セツの家族は貧困から完全に脱したといえるだろう。

ヘブンは日本の家族の流儀に従った。日本研究の大先輩B.H.チェンバレンに宛てた手紙には、たとえばこんな記述がある。「一同が座に着く時には、名誉の地位はいつも年齢と親子の順で決められる。その時には、私は四番目、妻は五番目の席です。そして、そういう時には、いつも老人が最初にもてなされる」(長谷川洋二著『八雲の妻』より)。万右衛門、金十郎、トミ、ハーン、セツという順番だったということだろう。

だが、こうしてセツの家族と同居したおかげで、ハーンの仕事ははかどることになった。前掲書から引用する。「当時四十八歳のトミは、無学で迷信にも無批判な女であったが、器用で律儀な働き者で、その無私そのものの心は、ハーンに敬意と愛情を抱かせる。以後は裏方として家の中の一切を預かり、ハーンの身の回りと執筆の世話に、セツが専念することを可能にした」

ラフカディオ・ハーンと妻のセツ
ラフカディオ・ハーンと妻のセツ(写真=富重利平/Japan Today/PD US/Wikimedia Commons)

明治26年(1893)11月17日、セツとハーンのあいだに初めての子である一雄が生まれたが、一雄を背負ったトミが、神社の石段で躓きながら孫を守り、右の頬に一生消えない傷を負ったというエピソードが残っている。