ハーンが寝込んだときセツはまだいなかった

じつは、ハーンとセツが出会ってから事実上の夫婦になるまでの期間は、「ばけばけ」でヘルンとトキが結ばれるまでの期間より短かった。

ハーンの死後、セツの回想が筆録された『思ひ出の記』には「ヘルンはもともと丈夫の質でありまして、医師に診察して頂く事や薬を服用する事は、子供のように嫌がりました」と記されている。また、長谷川洋二『八雲の妻 小泉セツの生涯』(潮文庫)によれば、「私の知る限りでは、ヘルンは晩年に至るまで、全く病気を致しませんでした」という記述もあるという。

ところが、ハーンは明治24年(1891)の1月半ばから10日間ほど風邪で寝込んでいる。すると、セツはその時点では、まだハーンの世話をしていなかったことになる。事実、ハーンが「ばけばけ」の錦織友一(演・吉沢亮)のモデルとなった西田千太郎に送った、住み込みの女中を求める手紙には、「冬も峠を越した」と書かれ、授業の様子も記されている。そこからその手紙は、風邪から復帰した1月終わり以降に書かれたものと推定される。

したがって、ハーンのひ孫の小泉凡氏も次のように書く。「1891年(明治24)年の恐らく2月上旬に、セツが住み込みで八雲のそばで働くことになります。23歳でした」(『セツと八雲』朝日新書)。

ドラマとは異なる「スピード婚」だった

「ばけばけ」では、トキは明治23年(1890)の秋ごろから、ヘブンの女中として働きはじめ、12月にヘブンが寝込むと熱心に看病した。そうするなかで、たがいに少しずつ惹かれ合いながら正月を迎え、ヘブンに求婚したリヨは失恋し……という展開だが、モデルとなったハーンとセツは、「ばけばけ」で描かれたここまでの期間は、一緒にすごしていなかったのである。

その後、ハーンとセツは6月22日、松江城の内堀に面した松江市北堀町の、現在「小泉八雲旧居」として公開されている旧武家屋敷に引っ越した。それについて、セツの『思ひ出の記』には、「私と一緒になりましたので、ここでは不便が多いというので、二十四年の夏の初めに、北堀と申すところの士族屋敷に移りまして一家を持ちました」とある。

「私と一緒になり」「一家を持ち」ということは、セツはハーンのもとで働きはじめて4カ月足らずのこの時点で、2人の関係を事実上の夫婦と認識していたことになる。

ラフカディオ・ハーンと妻のセツ
ラフカディオ・ハーンと妻のセツ(写真=富重利平/Japan Today/PD US/Wikimedia Commons

ひとつには、「ばけばけ」で描かれているのと違って「住み込みの女中」だったので、関係は深まりやすかっただろう。だが、上に記したような過去の苦い経験もあり、ハーンは結婚には慎重だった。だから、のちに熊本で親しくなった田村豊久の再婚について、次のように諌めている。

「私が君の立場だったら、彼女に度々会って話をし、見極めをつけないでは――つまり、これから自分が何をしようとしているのかを知らずに――若い女を妻に娶ることはしないだろう…… 思うに、君は相手が君にとって真実いとしいものとなるという確信なしでは、いかなる女とも再婚すべきではない」(前掲『八雲の妻』より)。