ハーンは新聞社をクビになり転職

しかし、ハーンがどれほどセンセイショナルな事件を扱ったとしても、または、それがセンセイショナルであればあるほど、書き手に要求されるのは、冷静な観察眼や、理性的な文章、教養の蓄積でした。その点において、ハーンとマティのギャップはあまりにも大きかったといえます。

さらに当時のアメリカには、黒人女性との結婚を容認する空気は皆無でした。二人は住むアパートを探すのさえ苦労しました。職場でも風当たりは強く、ハーンはせっかく得た新聞社の正社員の地位も失って、以前より安い給料でライバル紙に移籍します。ハーンとマティの仲が決定的な破局を迎えるのは1877年の夏頃だと推測できます。なぜなら、この年の10月にハーンはシンシナティを去って、ニューオーリンズへ向かうからです。

新聞社「シンシナティ・エンクワイラー」の古いイラスト
新聞社「シンシナティ・エンクワイラー」の古いイラスト(写真=iStock.com/ilbusca)

彼がふたたび漂泊の旅に出たのは、マティとのこじれた関係に憔悴しょうすいしきった結果といわれています。事実、それが、いかに精神的な重荷となっていたかは、この前後にハーンが父親代わりともいえるワトキン宛てに出した手紙に、はっきりと記されています。

「高慢ちきでわがまま」と妻を批判

「マティのことでは、あなたには想像もつかないほど私は苦しんできました。そして、彼女が身を滅ぼしてゆくのを放っておくのは私には耐えられません。これまでの言行にもかかわらず、私は彼女を愛しています――もはやどんな女性も愛せないと思えるほど、深く愛しています。なぜか、彼女が堕落すればするほど、私は彼女をいとおしく感じます。悪いのは自分であり――そもそも結婚したのが間違いだった――救ってやるつもりが、以前よりも堕落させただけだった。結婚さえしなければ、地獄に落ちるにせよ、彼女の苦しみはずっと少なかったでしょう」

この手紙はさらに続いて、「高慢ちきでわがまま」な彼女がいかに堕落しているかが、詳細に綴られています。そして最悪の事態になって、彼女が警察署に留置されたり、身体を売ったりするようになるのではないかと危惧さえしています。それから、多少は良いことも思い出そうとします。

「小さな悲しい思い出がつぎつぎと心に浮かびます。可愛い歌を教えてくれたこと、小さな物語を聞かせてくれたこと、私が落ち込んだときには力になろうと努めてくれたこと。もちろん彼女は私の助けになどなりませんでしたが、できるかぎりのことを彼女なりに精一杯やってくれました。」

シンシナティ時代のラフカディオ・ハーン
シンシナティ時代のラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、1873年(写真=エリザベス・ビズランド著『ラフカディオ・ハーンの生涯と手紙』(1906年)よりシンシナティ・ハミルトン郡公共図書館所蔵)